国民同胞巻頭言

第678号

執筆者 題名
武澤 陽介 小学校教育の経験から思ふこと
- 本末を見失った「錯覚」に慄然とする! -
大岡 弘 女性天皇に課せられた不文律(上)
- 継嗣令「本注」をめぐって -
西山 八郎 副島羊吉郎先生のご講話
- 黒上正一郎先生との「出会ひ」 -
東京高等師範学校 信和会設立趣意書
〝澤部壽孫先生を迎へて開かれた「長崎大学和歌の会」の感想文〟から(抄)
書籍紹介
〝澤部壽孫先生を迎へて開かれた「長崎大学和歌の会」の感想文〟から(抄)

 今から10年近く前の話になるが、約半年間、千葉県の某公立小学校に産休代替講師として赴任した。卒業を控へた第6学年の担任だった。私が小学校を卒業して十年以上経ってゐたので、以前と学校現場の雰囲気がどのやうに変ってゐるのか非常に興味があり、この仕事を引き受けた。

 いよいよ児童との対面である。教室で児童の自己紹介を聞きながら名簿を見て驚いたのは、記載されてゐる名前が男女で混在し、性別を問はず五十音順であったことである。最近の名前は読み方や性別がはっきりしないものが多い。この名簿は生徒の顔を名前を覚えるのに苦労するばかりか、クラスの運営上でも非常に不便なものであった。

 名簿の問題は、一人づつ男女のチェックを付けることで乗り切ることができたが、性別や年齢を問はず全ての児童に「○○さん」といふ敬称を付けることを強要されたことは実に不快であった。男子の児童に対して「○○くん」と話しかけたら、間髪入れず女性教員から「〝さん〟と呼んで下さい!」と、児童らがゐる前で叱責された。かういった〝ジェンダーフリーごっこ〟は多々あったが、なによりもこのやうなことを児童の前で注意されてしまっては、教師の威厳も何もあったものではない。否、さういったものはそもそも教室には無かった。

 引き継ぎのために初めて教室で紹介される際、産休に入る女性教員から耳を疑ふやうな言葉が児童に向って発せられた。

 「先生は、まだこの学校に慣れてゐないから、みんなで助けて、仲良くしてあげませう。」

 小学校では教員と児童が友人関係なのだらうか、と考へさせられた。失墜してしまった教師の立場は、最後まで完全には払拭できなかったやうに思ふ。

 授業は、いはゆる主要な科目の時間がとても少なく感じた。学校5日制(土日休業)のため授業時間数が少くなってゐるにも関らず、勉学以外の不思議な名称の時間が多く設定されてゐた。算数は辛うじて週に5コマあったが、特に国語は週に4コマしかなかった。そして国語が無い日に私の頃には存在しなかった「外国語」の授業が設定されてゐた。

 「外国語」とは英語である。それは市から派遣されてきた日本語が話せるネイティヴの教員助手に一任され、担任はそれを部屋の隅で見てゐるといふ形態であった。内容は、簡単な挨拶のやり取りなどを教員助手に続いて児童が声に出した後、班ごとに教員助手の自作の英語のボードゲームで点数を競ったりしてゐた。そして、日本では無名なアーティストのプロモーションビデオ付きの英語の流行歌を、教室の大きなテレビ画面の映像を見ながら意味も解らず口ずさむ、といったもので、英語の授業どころか、私には時間の浪費にしか見えなかった。

 国語の授業の少なさによる文章力の低さは、直ぐに卒業文集の作文指導に支障が出た。特に漢字や日本語の不正確さが目立ち、またカタカナ語の使用が非常に多かった。基礎学力の低下は明らかだと思はれた。

 ところで、3年前、音楽教育の現場で大きな出来事があった。半世紀に渡って東京藝術大学を中心に使用されてきた音楽の基礎科目の一つであり、音の響きの理論である「和声」の教科書が一新され、長年我が国で使はれてきた方式ではなく、欧州風のものに変ったのである。

 編者によると、その大きな理由の一つに、日本人の演奏する西洋音楽は日本語の発音のやうで海外では通用しないので、聴感覚を西洋人の耳に近づけなければならない、といったものがあった。かうした話は音楽の世界では、例へば国際的なコンクールで日本人が落選する度に聞かされてきた。多くのアジア人が欧米に大挙して留学したがるのも同じやうな理由である。これは再現芸術である音楽においては一定の理解はできることではあるが、そこには危ふさもある。実は西洋の模倣でよければ、さほど芸術などは難しいものではない。そこを超えた部分に芸術の真の価値があり、それが困難な課題なのである。

 〝国際人〟である前に、先づは一国民でありたいものである。

(作曲家 上野学園高等学校音楽科・上野学園大学講師)

ページトップ  

 「女性宮家」の創設が正当か否かを判断する上で、押さへておくべき大切な歴史的事実がある。明治前期以前の女性天皇、並びに、皇位継承資格をお持ちの宮家女性当主には、「み位」に付随した「不文律」が課せられてゐた。その不文律とは、「御在位中、並びに、それ以降は、生存する配偶者を持つことを許さず」といふ、暗黙の例外なき掟(おきて)であった。現在、課題の一つとされる「女性宮家」案では、女性当主が夫を持たれることを想定してゐる。これは、この不文律に抵触することになるが、果して許されることなのであらうか。

1.養老令の継嗣令第一條

 皇位継承は、国家最重要の事柄である。それ故、慣習上「天皇や上皇の大権事項」と看做して来たためであらうか、明治の皇室典範制定以前には、皇位継承に関る明文規定は存在しなかった。瀧川政次郎氏は、律令に皇位継承法が規定されてゐないのは、律令は臣民の遵守すべき規則を定めるものであって、帝王の則るべき準則を定めるものではないと考へられてゐたからだと捉へてゐる。事実、天皇の行動について規定した条文は、律令1400余条中、神祇令と喪葬令に各1条あるのみである(瀧川政次郎著『非理法権天―法諺の研究―』、青蛙房、昭和39年)。

 多少関係する成文規定は、大宝元年(701)に制定された大宝令の中の継嗣令である。条文には多少の変遷があり、また、時代が下るにつれて、その時の事情やその時代の慣習が重視されてこの継嗣令は形骸化してはゐたが、明治に至るまで廃止されてはゐなかった。この大宝令とその改訂版である養老令には、「女帝」の文字が出てくる箇所が一箇所だけある。その箇所とは、継嗣令第一條「皇兄弟子條」条文の中の原割注「女帝の子も亦(また)同じ」である。大宝継嗣令とほぼ同文とされる養老令(718年制定、757年施行)の継嗣令第一條「皇兄弟子條」の条文とは、以下のものである(井上光貞ほか校注『日本思想大系3 律令』、岩波書店、昭和62年版)。

  1「凡そ皇(天皇)の兄弟(姉妹を含む)、皇子(皇女を含む)をば、皆親王(内親王を含む)と為(せ)よ。《女帝の子も亦同じ。》以外は並に諸王(女王を含む)と為よ。親王より(親王を一世として数へて)五世は、王の名得たりと雖も、皇親の限に在らず」。

ここに《 》とあるのは継嗣令の原割注である。以下、この第一條割注を「本注」と呼ぶことにする。なほ、( )内は引用者の注である。

 この意味は以下の通りである。

 「天皇の兄弟・姉妹、および、天皇の皇子・皇女は総て親王・内親王の身分とせよ。《女帝の子も同様に親王・内親王の身分とせよ。》それ以外の者は並びに諸王・女王の身分とせよ。親王を一世として数へて五世の者は、諸王・女王の名を称することは許すが、皇親の範囲には含めない」。

2.令中の難義、第一條「本注」

 大宝令は、大宝元年(701)に制定され、翌年中には総ての条文が施行された。養老令は、大宝令の一部改訂版として養老2年(718)に制定された。しかし、養老令が実際に施行されたのは、39年後の天平宝字元年(757)からである。施行が遅れたのは、大宝令と内容があまり変らなかったからである。その後『養老令』を補ふものとして、天長10年(833)に、官撰注釈書の『令義解』が制定された。『令義解』の注釈は、養老令本文と同じ法的強制力を有するものとされ、翌承(じよう)和(わ)元年(834)から施行された。これは、『令義解』の公権注釈の付加によって、養老令を834年に解釈改定したことを意味する。その後、860年~880年頃に、古来の注釈や諸家の学説を集大成した私撰の注釈書『令集解』が世に出た。『令集解』も養老令の注釈書だが、貴重にも大宝令条文に対する注釈が「古記云」として引用されてゐる。この「古記」の成立は古く、738年頃とされてをり、その時期は、養老令の制定以後・発効以前の、大宝令施行時期に当る。

 継嗣令第一條「皇兄弟子條」は唐の封爵(ほうしやく)令(王公侯伯子男の爵号継承法)を母法として作られたが、唐令には、この本注「女帝の子も亦同じ」に該当する文言は見当らない。従って、この「本注」は、我が国独自に設けられた規定と見てよい。ところが、我が国の10代八方(かた)の女性天皇方は、御在位中、並びに、それ以降は、生存する配偶者を持たれた方は一人もをられなかった。そこで、大宝・養老継嗣令の「本注」を解釈するに際しても、また、継嗣令「本注」に付された『令義解』の公権注釈を解釈するに際しても、長い間、「女帝の子は有るべき訳でないから、令中の難義(意味が分かりにくい語)となって居りました」(明治時代の国学者・小中村清矩の述懐)とされてゐた。以下、宮部香織氏の論文「律令法における皇位継承―女帝規定の解釈をめぐって―」(『明治聖德記念學會紀要』復刊第46号所収、平成21年)を手がかりに、『令集解』所載の大宝継嗣令「本注」に対する「古記」の注釈、および、養老継嗣令「本注」に付された『令義解』の公権注釈を紹介する。

3.「古記」の注釈

 『令集解』所載の「古記」の注釈では、「古記云ふ。女帝の子も亦同じ。謂ふは、父諸王と雖も猶(なほ)親王と爲よと云ふ。父諸王と爲よ。女帝の兄弟、男帝の兄弟と一種。」となってゐる(黑板勝美、國史大系編修會編『新訂増補國史大系 令集解第二』、吉川弘文館、昭和63年。原漢文、書き下しは引用者)。この「古記」の注釈の意味は、以下の通りである。

 「本注『女帝の子も亦同じ』。その謂ふところは、女帝の子の父親の身分が諸王であったとしても、女帝の子の身分は親王とせよ、といふ意味である。父親の身分は諸王のままとせよ、(本注には「女帝の子」としか記されてゐないが、)女帝の兄弟についても、男帝の兄弟の場合と同じく親王の身分とせよ、といふ意味である」。

4.『令義解』の公権注釈

 一方、本注に付された『令義解』の公権注釈では、「謂ふは、四世以上に嫁して生む所に據て云ふ。何となれば、下條を案ずるに、五世王親王を娶(めと)るを得じと爲す故なり。」となってゐる(黑板勝美、國史大系編修會編『新訂増補國史大系 令義解』、吉川弘文館、昭和63年。原漢文、書き下しは引用者)。この公権注釈の意味は、以下の通りである。

 「本注の謂ふところは、女帝の子とは、四世以内の者に嫁して生みし子を云ふ。なぜならば、下條に、五世王は親王(内親王のこと)を娶ることが出来ないと書いてあるからである」。

 ここで、下條とあるのは、継嗣令第四條「王娶親王條」の4「凡そ王、親王(内親王のこと)を娶り、臣、五世の王(五世女王のことで、臣下の身分)を娶ること聴(ゆる)せ。唯し五世の王(臣下の身分)は、親王(内親王のこと)を娶ること得じ」といふ条文を指してゐる(前掲、井上光貞ほか校注『日本思想大系3 律令』)。( )内は引用者の注。

 この意味は以下の通りである。

 「王名を称することの出来る王以上の身分の者は、内親王以下総ての身分の女性を娶ることが許される。一方、皇親ではない臣下の男性は、(皇親から外れる)五世女王までは娶ることが許される。ただし、(王名は有しても皇親から外れる)五世王は、内親王だけは娶ることが出来ない」。

 すなはち、この後半部は、「臣下の身分の五世王には、二世女王以下の女性を娶ることは許すが、内親王だけは娶ることを許さない」といふ規定である。従って、内親王の配偶者たり得る資格は、親王と四世以内の王に限られるといふ規定である。

 律令制下の皇親制度は、大枠では先天的「生まれながらの身分制度」ではあったが、親王および内親王になるか否かは、後に、父君あるいは母君が天皇になられるか否か、また、兄弟姉妹が天皇になられるか否かで決るといふ、後天的要素も多分に含んでゐた。「古記」の注釈では、女性が天皇となられる場合は、男性が天皇になられる場合と同じく、女帝の御子を親王身分に昇格させ、また、女帝の兄弟姉妹も親王身分に昇格させよ、と注釈してゐる。また、女帝の配偶者については、五世王を含む諸王以内の身分の者を想定し、その身分は、女帝御即位後も「そのまま」とせよとしてゐる。ここで言へることは、女帝の御即位以前の父系系譜上の血統御身分や、配偶者たる諸王の血統身分については、なんら条件を付けてはゐないといふことである。

 一方、令義解では、継嗣令第四條条文の後半部を根拠として、女帝の配偶者は四世王以内の身分の者とした。後半の条文は、五世王に対して「内親王」を娶ることを禁ずる規定である。従って、ここに言ふ女帝とは、御即位以前は「内親王」であられたお方を指すことになる。そして、女帝の子とは、その「内親王」であられたお方と、四世王以内の男性皇親の間にお生まれになった御子を想定した上で施した注釈といふことになる。この公権注釈によって、『令義解』施行の承和元年(834)からは、女性天皇の配偶者は四世以内の男性皇親となった。だが、実際には、歴史上、女帝の御即位以後に生存してゐた男性配偶者は、皆無なのである。

(元新潟工科大学教授)

ページトップ

   御専門は教育心理学

 佐賀県神埼郡仁比山村大字城原字菅生(現神埼市城原)は、副島羊吉郎先生が青年期を除く大半を過されたふるさとである。吉野ヶ里歴史公園の北西約4㌔に位置する日の隈山(標高158米)の麓にある小さな集落で、有明海に注ぐ城原川につながる清らかな小川が流れてゐて、その川にかかる橋のたもとに先生のご自宅がある。

 先生は明治40年のお生れで地元の仁比山小学校から旧制三養基(みやき)中学校(現佐賀県立三養基高等学校)を経て東京高等師範学校(現筑波大学)に進まれ、その後再び東京文理科大学(現筑波大学)で学ばれた。御卒業後は福島県立安積中学校、兵庫県立第一神戸高等女学校、愛媛県立今治中学校などで勤務された後、昭和25年から昭和48年まで佐賀大学教育学部に奉職。定年退官後も複数の私立大学で教鞭をとられ、平成16年、98歳で帰幽された。

 先生の御専門は教育心理学で、『問題解決における中心転換の心理』(風間書房)、『数学きらいはなぜ生まれるか』(講談社)などの御著書や多くの学術論文を残されてゐる。また、昭和45年から20年以上の長きにわたりご自宅を開放して地域の子どもたちのための私設図書館「若竹文庫」を営まれ、読書を通じて学ぶことの楽しさや意義を伝へていく活動をご夫婦で熱心に続けられた。その活動が認められ平成元年には佐賀新聞社の「社会大賞」を受賞されてゐる。

   先生のお宅に伺った際の思ひ出
     ─〝学校の成績のためでなく、生涯のために〟─

 先生に初めてお会ひしたのは、昭和59年の秋のことで、佐賀地区合宿でのご講話をお願ひするため先生のご自宅に伺った際だったと記憶してゐる。学生時代に輪読会でよく読んでゐた『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の著者・黒上正一郎先生に直接お会ひになり教へを受けられた方と聞いてゐたので少々緊張しながら訪問すると気さくに応じて下さり、ご講話についてもご快諾いただいた。「NON SCHOLAE,SED VITAE」(学校の成績のためでなく、生涯のために)といふ「若竹文庫」の入り口に掲げられた言葉の由来や文庫設立の経緯、そして文庫に通ってくる元気な子どもたちの様子、進路など未来に生きる地元の子供達に思ひを託してこられた営みについてお話を聞かせていただいた。

 合宿は、昭和59年12月に一泊二日の日程で、先生のご自宅に近い国民年金保養センターで行った。粉雪の舞ふとても寒い日で社会人となって日の浅い五人の友人が集まってくれた。先生は、黒上先生との出会ひ、人となり、研究に向はれる姿など約一時間半にわたり、まるで昨日のことのやうに熱く語られた。

 東京高等師範学校に進まれた先生は、中学校の時の校長先生から隣町出身の実業家で大倉精神文化研究所の設立者・大倉邦彦といふ方を紹介され、挨拶に行かれる。四国にゐる叔父の勧めで春休みに四国一周の旅を思ひ立ったことを大倉氏に話されると、四国に行くなら黒上正一郎といふ素晴らしい篤学の先生がをられるので、是非会ってくるやうにと勧められ、早速実行に移される。そのとき伺ったお話を一部ご紹介しよう。

   「黒上先生は本当にいいなあといふ気持ちで御製を読まれた」
     副島先生のご講話①

 「四国巡礼の途中だったので、菅笠、金剛杖、手甲、脚絆、下駄ばきに柳行李のやうなものを担いで遍路の格好をして、真っ先に徳島の黒上先生のところを訪ねていきました。

 黒上先生のところは船場町といふ川の淵にありました。

 家は藍問屋で古い旧家でした。入ると大きな柱があり商家らしく広い土間があって、女中さんが出てきたので名刺を渡したらお母さんが出てこられました。体は小さい方でしたが、実にいい人で〝さあさあ上がんなさい〟と言はれて、二階に通されました。

 待ってゐると着流しの和服で黒上先生が出て来られました。28歳くらゐだったでせう。まだお元気でした。

 背は高く170センチ以上あったでせう。目は大きくて骨格は大きかったですよ。先生はすぐ『日本及日本人』に掲載されてゐた三井甲之先生の『明治天皇御集研究』の切り抜きを懐(ふところ)から出され、〝あゝいふ人は500年に一遍ぐらゐしか出ない人です〟と言はれ、明治天皇の御製を詠まれました。

     山家燈(明治41年)
   ともしびのたかき処にみゆるかなかの山辺にも人はすむらむ

     薄暮眺望(明治37年)
   家なしと思ふかたにもともし火の影みえそめて日はくれにけり

 黒上先生は、この二首を感動を込めて読まれました。その頃は小学校の教科書にも御製は載ってゐましたが、ちっとも感動を覚えませんでした。その先生自身があまり感動せずに字句の説明だけだったからでせう。黒上先生は本当にいいなあといふ気持ちで読まれたので、私もズーンときていいなあと思ひました。」

 初めてお目に掛かった黒上正一郎先生の純粋で思ひのこもったお話に、副島先生が吸ひ込まれるやうに聞き入り心が揺り動かされたご様子が、その言葉と表情からひしひしと伝はってきて、私もその場にゐるやうな感じでお話をお聞きした。

   「黒上先生は非常に文章に鋭敏な方だったんです」
     副島先生のご講話②

 副島先生は更に黒上先生の言葉に向き合ふ鋭敏な感性についてもご紹介された。

 「黒上先生の文章は独特なんです。格調があって文章がひとつの詩になってゐます。先生は非常に文章に敏感な方だったんです。小学校の時に4年か5年かの学校の教科書について、先生になんでこんなまずい文章を教へるんですかって言ったら怒られたとご自分で仰ってゐました。読本の文章がつまらんといふのは先生の実感じゃなかったんでせうか。」

 また、黒上先生の学問研究の姿勢について次のように語られた。

 「黒上先生は、我々に手紙を書くときは〝副島羊吉郎兄(けい)〟と書かれるんです。先生の方が年上なのにいつでも私だけじやなくて、みんなに兄と書かれてゐました。一緒にやりませう、でしたね。

 その頃はマルクス主義が蔓延してゐた頃ですからね。黒上先生も一時期は河上肇の弟子にならうかと思ったことがあると言ってをられましたよ。しかし、同時に三井甲之先生の本を読まれて、こちらが大事だと三井先生の方に惹きつけられたのです。それから、聖徳太子の研究家に京都の井上右近といふ方がをられました。この方は真宗のお坊さんで三井先生と縁がありました。黒上先生の歌にかういふのがあります。

 あひまつりしその日よ空はうすぐもり大比叡がねはほのにけむりし

 これは井上右近さんを訪ねた時の歌です。この前後から聖徳太子の研究を始められたのではないかと思ひます。その後、井上さんのところを離れて東京へ出られることになります。先生は10年ぐらゐは、三経義疏の研究をするのだと言はれてゐましたね。先生は聖徳太子像の掛け軸をいつも持参してをられて、三経義疏を読んで分らないときは、東京の旅館でもその掛け軸を壁に掛け、香を焚いて拝まれるのです。教へて下さい、と。」

   「黒上先生は一人でも学生がゐれば構ひませんと言はれた」
     副島先生のご講話③

 黒上先生は東京に出られて、一高や高等師範で時間外に講師を務められましたが、学校当局は何にも関ったわけではありません。みんな学生が先生を招いてやったのです。謝礼なんてまったくないですよ。先生は、私は太子の言葉を聞いて貰へばそれで十分ですとおつしやってゐました。

 ところが、学生が集まらないのです。そこで学生が少なくて申し訳ありませんと言ふと、いや、一人でもゐればそれで構ひませんと言はれたのです。先生が一高や高師で聖徳太子の講義をすると言ふと、聞いた人が止めたさうです。今時の学生が聖徳太子の話など聞く訳がない。第一、マルクス主義が盛んな時ですからね。しかし、先生は私はやりますと答へられたといいます。先生は優しいお顔の方なんですよ。お声も実に澄んだ声でした。しかし内心はたいへんお強かった。」

   副島先生起草の「東京高師信和会」設立趣意書

 副島先生は、黒上先生との出会ひの後、東京高等師範学校の学内に「東京高師信和会」を設立されてゐる。副島先生が起草された趣意書(次頁)を読むと黒上先生の生き方に魂を揺さぶられ直ちに行動せずにはおれなかった若き副島青年の熱情が伝わってくる。黒上先生との出会ひが副島先生の人生を決定づけたとも言へよう。そして、その出会ひは、偶然といふよりも不可思議な縁(えにし)で結ばれてゐたと思はれるのである。

       ○

 ご講話の合間には、合宿での輪読用に持参してゐた黒上先生の聖徳太子の御本を手に取りながら、「学生のときはガリ版刷りのもので勉強してゐましたよ」と目を細めながら往時を懐かしさうに振り返られてゐた。ここに掲げた上段の写真は、ご講話が終って副島先生(前列中央)をを中心に撮ったもので、先生の隣り(向って左)に末次祐司先生(元佐賀商業高校教諭)が写ってゐる。私の手許にある庭に出て撮影したもう一枚には、粉雪の舞ふなかコートに身を包まれたお姿が写ってゐる。

 その後も何度かご自宅に伺ふ機会があったが、先生は疑問に思ふことを色々な著名人に直接手紙で質問され、それらの返信を大切に保管されてゐた。また、新たに挑戦されてゐる日本舞踊やピアノなどの習ひ事などについても嬉しさうに話して下さった。80歳を過ぎてなほ探究心を持ち続け研鑽に努められた御生涯だった。

(寺子屋モデル)

ページトップ  

 精神文化を宣揚し、国民教育の重大使命を荷ひて立つ我東京高等師範学校は教育の総本山として世のひとしく認むるところである。

 燦として輝く古い歴史と床しい伝統精神との雰囲気のうちに、我等は心ゆくばかり志す育成のみちに精進することの出来る将来を思ふとき、自由と向上とを標榜して高い理想と遠大なる抱負とを限りなく実現し啓発して求道精進せんとするのである。

 けれども教育者の修養といひ、又教育学術の研究といふと雖も、これが根本原理を如何なる道に求め、之が体験を如何なる人に仰ぐかの具体的内容を伴ふに非ざれば、抽象空虚の概念理論に停迷して、真に生命ある教育者の信念又これに基く教育教化の活きたる事業は成就せらるべくもないのである。我等はかくの如き指導原理を聖徳太子明治天皇の御精神に仰ぎまつるのである。我等はこの大御心を仰ぎ太子の御著三経義疏及び明治天皇御製を拝誦すると共に親鸞日蓮の如き、山鹿素行、吉田松陰の如き我教化史上の偉人を回顧してその御精神を体得し、まことの教育者として正しく堅き信念に基き、真に教育教化を以てわが日本の永久生命を守らんとするのである。

 我等は今や吉田松陰さながらなる黒上先生をいたゞき、求道信仰に基く研究実行の向上を念じ、之を将来の国民教育のため立んとする我高師学生として相共に実現せんことを願ひ、信と友情にもとづきて永く協力し、我等の学生々活に意義あらしめ、蒼惶としてすぎ行く青春時代に意義最も深き教育者への第一歩をこの大塚の台上に踏み出さんとするのである。

 友よ!来(きた)つて共に育英の道に精進せん。

昭和4年5月 東京高師 信和会

ページトップ  

〔編註〕長崎大学では学生による短歌の勉強会「長大和歌の会」が開かれてゐる。2月27日の例会には、折から帰省中の長大ОBの澤部壽孫副理事長が参加して、学生諸君による相互批評に加った。その折の感想文が寄せられたので、その一端を御紹介したい。
 歌を詠むことで、新たに学んだことが率直に記されてゐる。

   長崎大学3年 津田真木

 私は、現在3年生ですが、1、2年生の頃に比べて、和歌を詠むことが好きになりました。ふとしたときに自分の詠んだ和歌を見返すのですが、その度に、歌に詠んだ情景が再び蘇り、そのときに感じた感動や感情が再び沸き起こってきます。その感覚を抱く瞬間がとても嬉しく、幸せを噛み締めている実感があります。これは詠んだ後にしか分からない感覚だと思います。私は今、和歌とともに生きているという実感があります。和歌を通じて、自分の思いを知る、これは放っておくとなかなかできないことで、私はこれをすることによって、自分の思いに正直でいられるようになりました。自分の感覚を少しずつ信じられるようになりました。人と比べすぎないようになりました。和歌を詠むことによって、ものの見方、考え方までも変わってきたのだとしみじみ思います。

 今回の和歌の会で、一番心に残った澤部先生のお言葉は「思っただけでは思いにはならない。歌を読む高揚を感じる。見返すとそのときの思いが蘇ってくる」です。まさに、今、その実感にあると思います。今までの私の意識は「歌を詠まなければいけない」というもので、ただ三十一文字に言葉を当てはめていくだけというような形式ばった詠み方をしていました。しかし、その三十一文字に思いを込めることが大事だと知り、それから思いを込めるという意識が変わりました。

 また、和歌の会において、勉強になりましたことは、熟語をなるべく使わないことです。私が詠んだ和歌に「感動」という表現をしていますが、よくよくその情景を思い返すと、「涙が出るほどの思い」であったこと。このときの思いを「感動」という言葉に留めておくのはもったいないと思いました。最終的には、「自ずから涙の出たる喜び」と表現することにしました。最後に出来上がった和歌は、

 自づから涙の出たる喜びを活き活 き語る友ありがたき

です。この和歌を見返す度に、本当に良い友と出会えたと心の底から思います。「ありがたい…」という気持ちを何度も噛み締めています。私はこれこそ和歌の醍醐味だと思いました。そのときそのときの思いを噛み締めて、また前を向いて歩いていくこと、これをさらには人生だと思いました。心とは動くもの、動いたことを和歌に詠むこと。ずっと、ずっと大事にしていきたい営みであると思いました。また、これを昔から思い続け、語り続け、継承してこられた日本人の道の上に、私達もいるんだ、という実感がふつふつと沸き起こってきます。

 また、和歌相互批評とは、素晴らしい営みであると思いました、一人の思いに皆が寄り添い、皆で思いに適した言葉を見つけていく営みは、相互批評ならではだと思いました。言葉を通じて、その人の心に迫っていくことができる、そんな営みをこれからも、私個人としても、長崎大学日本教育研究会では大事にしていきたいと思います。

   長崎大学2年 横枕大輝

 自分の添削であったり他の人の歌を添削している中で私たちがいかに言葉をいい加減に扱っているかがわかりました。歌を詠むなかで推敲しているのにもかかわらず、仮名遣いが間違っていたり、同じような言い回しを使っていたりなど添削されて初めて気付くことが多くありました。そこで歌を詠む時にも、鑑賞する時にも大切になるポイントを理解することができたと思いました。自分の気持ちを正確に言葉で表す力、相手の心情を正確に受け止める力を、和歌を詠み、鑑賞するなかで養っていきます。

   長崎大学2年 堀井亮佑

 和歌を見てもらったり、相互鑑賞したりする機会があまりなかったのでとても新鮮でした。また、今まで和歌に対して少し苦手意識といいますか、抵抗があったのですが、改めて自分の和歌を見てもらったり、サークルの皆の和歌を先生と一緒に鑑賞して、とても楽しかったですし、和歌に対する抵抗もなくなりました。また、澤部先生が仰られていた「思っただけでは、想いにならない。歌に詠んで初めて自分の想いとなる」のお言葉がとても心に残りました。これからも日常の中に和歌を詠んでいこうと思います。ありがとうございました。

   澤部先生の和歌の会にて

・自らが詠みし歌をば先生に添削受 ける意外に楽しい
・皆が詠みし三十一文字にこめられ た想ひを想像するぞ楽しき
・これからは想ふことをば出来るだ けそのままにせず歌に詠みなん
・和歌の会正直抵抗あったけど素直 に楽しむ自分見つける

   長崎大学2年 河野るり

 すごく楽しかったです。改めて、自分の心にぴったりとくる和歌を詠むことは難しいと思いました。相互鑑賞をしているうちに、両親への和歌に込めた思いが、帰り際に親についての感情が嬉しかったのか悲しかったのかわからなくなりました。しかし、皆さんが私の心の内を一生懸命に吟味してくださり、とても嬉しかったです。澤部先生が教えてくださったきれいな大和言葉をたくさん覚えて、使っていきたいと思います。

   長崎大学1年 中村祐哉

 わざわざ東京からお越し頂きありがとうございました。今回は、歌を詠めていない状況での相互批評でしたがとても楽しく、有意義な時間でした。今後の和歌創作に生かせることがたくさん見つかりました。また添削して頂く機会がありましたら、よろしくお願いします。

   長崎大学1年 長田麻衣子

 私は、今回初めて和歌相互批評をしました。自分の和歌を添削して頂いたとき、自分の気持ちにぴったりくる言葉が見つかるってこんなに楽しいんだなと感じました。また、他の人の和歌の添削を聞いていて、知らなかった言葉や表現を知ることが出来ました。澤部先生のお話の中で一番心に残っている言葉は、「心が動いたときに和歌を詠む」という言葉です。今までは何かある度に「何か和歌に詠もう」と思っていて、義務のように感じていました。しかし、これからは自分が感動したとき、心が動いたときに自然と和歌が詠めるようになりたいと思いました。

   長崎大学1年 近藤日向子

 和歌批評はこういう風にされているというのが直に感じられて新鮮でした。その場の皆で一緒に、その人がこころ動かされたときのことを現す、和歌にぴったりくる言の葉を探すのが難しくも感じました。しかし、添削後の和歌をみると、その人の感じたことや思いがより深く伝わる和歌になっていて、和歌の力の凄さを改めて感じました。過ぎる時間がとても早く感じるほど楽しい時間でした。

(かな遣ひママ)

ページトップ  

 福田恆存は、私の好きな作家のひとりである。その御子息で翻訳家、演出家の逸(はやる)氏(明大教授)が父・恆存について本を書かれた(昨年7月刊)。読む前は、恆存の家庭内のエピソードや演劇への思ひなど交へて書かれてあるものと想像してゐた。ところが、実際読んでみると、内容はそんな甘いものではなかった。

 最初の方こそ父・恆存の手紙を中心に逸氏の幼き日の思ひ出が綴られてゐるが、その後は、鉢木會(福田恆存・中村光夫・大岡昇平・吉田健一氏らによる集ひ)メンバーとの劇団の運営に関する厳しいやり取りや近代化に対する白熱した議論、そして後半には、昭和56年に脳梗塞を起した後の、それまでのやうな論理的に整った文章が書けなくなったが、以前の演出にこだはる父・恆存に対して引導を渡さうとする逸氏との、逸氏をして「父殺し」と評した激しい確執と軋轢が描かれてゐたのだった。率直に言ふと、なぜ氏はこのやうな晩年の父の姿を今、発表しなければならなかったのか、恆存の文章を敬愛してゐる者の一人として疑問に思った。

 その疑問に対する一つのヒントとして「近代化」といふキーワードを考へてみた。第三部に「近代日本をいとはしむ―L嬢の物語」がある。

 この話は、恆存が一年間の欧米旅行で体験したことを例に、近代日本の姿とは何かを問ふてゐる。物語の内容を端折って紹介すると、…アメリカの一寒村の駅での光景である。若い娘が、その母親を見送りに来た。母親は老体。娘は母親の頭を胸に抱きかかへ、ハンケチを出して泣いてゐる。次の瞬間、二人はさっと別れて、母親はホームへ、娘は颯爽と車に乗って、後も見ずにさっさと村に戻って行った…といふ話である。

 恆存は、逸氏によれば、日本人とはその欧米人のやうな感情の割り切りができない民族、明確な自他の意識を持てず、相互の関係は限りなく曖昧な民族などと考へてゐたと言ふ。そんな日本が「近代化」を遂げた。しかし、その「近代化」は、物質的な発展を遂げたものであって単に〝西洋化〟と称してよいものである。近年では、個人主義なる〝利己主義〟も蔓延(はびこ)ってゐる。「自分」とは何か、「日本」とは何か、といふ存在に対して個々人が考へることがない。そこに日本の「近代化」への懐疑心を持つ。

 逸氏は、「西洋においては絶対神の下で、人間はすべて相対化される(中略)。〈日本人は〉ものごとも人と人もすべて同質性の方向へと導き、明確な自他の意識を持たない。(中略)そこに『距離感』は生れにくい」と解説する。この「距離感」を持つことこそが、日本人が近代化に適応できるカギとなるといふのだ。その「距離感」を持つための方法が恆存の場合「演劇」であった。演劇は「言葉」を使って意識的に上手に相手と「距離」が置けるか否かが試されるからである。恆存は西洋のマネをするのではなく、「日本語による本格的な『詩劇』を書いてみたいと考へた」のだった。

 本書を読み返すと、恆存が脳梗塞に罹らうとも息子の諫言も聞かず、必死で演劇の運営に携はらうとしたことや、翻訳や執筆業に徹したことは畢竟、日本の「近代化」と闘ってゐたのではないだらうか。

 逸氏は「〈この本を書いたのは〉偶像破壊が私の目的ではない。美しい仏像の頭部が損はれてゐやうとも、優れた造形は残された部分でも十分に鑑賞に堪(た)へる。残された姿が、却つて我々の想像力を掻(か)き立て、完璧な像を彷彿せしめる」と述べてゐる。本書を読めば、恆存が単なる頑迷固陋の思想家でなく、逆に柔軟で自由な思考の持ち主であり、思索の人であることが明らかになると思ふ。

 あとがきに「鬱ゆゑの胸部の不安や締めつけがすつと消え、光明が差し、キリストの顔と全体の醸す空気に救はれた…」といふ表紙カバーのルオーの「『ジルベールの手帖』扉」の紹介があった。逸氏と父の葛藤は最後まで解消されることはなかったやうだが、この絵に救ひを得たことで、やうやく今、父と「距離」を置いて語ることができたといふことであらう。

(熊本県立第二高校教諭今村武人)

 

お知らせ
  第63回全国学生青年合宿教室

   合宿教室(西日本) 日時場所変更    8月24日~26日  於・福岡県篠栗町 県立社会教育総合センター

   合宿教室(東日本)
    9月7日~9日      於・御殿場市   国立中央青少年交流の家
      ◦評論家江崎道朗先生、ご出講!

 

strong>昨夏の合宿教室の記録
   『日本への回帰』第53集  頒価900円 送料215円
お詫び 3月号につき、発送業者の機器の不具合で誤配や遅配が発生したことをお詫び申し上げます。

 

編集後記

 現今の小学校はどうなってゐるのか。巻頭の一文に改めて慄然となる。わが国の危機は北の核だけではない。内から既に侵蝕されてゐる。

 「女性天皇」に関する大岡氏の論考は3回続きます。ご精読下さい。(山内)

ページトップ