国民同胞巻頭言

第667号

執筆者 題名
野間口 俊行 敗戦革命」について
- 昭和史を学ぶ中で、改めて「思想戦」を思ふ -
神奈川県秦野市
原川 猛雄
皇居勤労奉仕に参加して
- 平成29年10月 -
平成三十年歌会始 お題「語」
日本政策研究センター所長
岡田 邦宏
(『明日への選択』平成30年1月号 “読者への手紙”)
昭和天皇が掲げられた五箇条の御誓文
小田村四郎先生 帰幽
- 歴史の真実を顕現するべく「思想戦」を戦はれたご生涯 -
新刊紹介
石川一郎太著 価税別1,100円
『マジック消しゴム・エピソードⅡ 日本の未来書』 文芸社

 ここ数年、鹿児島で国文研の会員と、大東亜戦争までの昭和史を学んでゐる。南正人氏(元鹿児島銀行取締役)が提供する資料を中心に進めてゐるが、最近の関心事は「敗戦革命」である。

 敗戦革命とは、大東亜戦争を敗戦に誘導して共産革命につなげようとした謀計のことである。戦前にあっても学界だけでなく政官界の中に根深く社会主義思想が浸透してゐた。そこにつけ込んだマルキスト達が目指したものはレーニンの「革命的祖国敗北主義」、つまり「帝国主義戦争を内乱(革命)に転化せよ」といふプロパガンダ(政治的意図に基づく情報宣伝)の現実具体化であった。

 月刊『正論』平成25年10月号所載の「日本を赤化寸前までに追い込んだ『敗戦革命』工作」(産経新聞編集委員 岡部伸氏)には驚くべき記述がある。戦況が不利に陥った昭和20年春、ソ連に和平仲介を依頼したらとの声が出た頃のことである。その一部を抄出する。

 木戸幸一内大臣(昭和20年3月)
 〇ソ連仲介工作を進めれば、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不真面目でさへなければ、受け入れてもよい。〇ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかといふ気運があるではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義者と手を握ることになるのではないか。

 梅津美治郎参謀総長(昭和20年2月9日、天皇に上奏した報告)
 〇大本営の意見では、米国の方針が、日本の国体を破壊し、日本を焦土にしなければ飽きたらぬのであるから絶対に米国との講和は考へ得られない。ソヴィエトは日本に好意を有してゐるから、ソヴィエトの後援の下に徹底抗戦して対米戦を続けなければならない。

 松谷誠大佐、参謀本部戦争指導班長「ソ連に頼って和平を行ふ理由」
 (昭和20年4月)
 ○ソ連の民族政策は寛容、白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のもので、人種的偏見少なく、民族自決と固有文化とを尊重し、共産主義化しようとする。よってソ連は、国体と共産主義とは絶対に相容れざるものとは考へない。○戦後、日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿る。この点より見ても対ソ接近は可能である。

 右のやうな政権中枢と軍部の親ソ・容共ぶりはその後の歴史を知る者にとっては驚異である。

 昭和20年6月の最高戦争指導会議で「ソ連に仲介による和平案」を採ることになるが、鈴木貫太郎首相は「ソ連に和平の仲介を頼んでみたらいかがですか。スターリンといふ人は西郷南洲(隆盛)に似たところもあるやうだし、悪くはしないやうな感じがする」と述べたといふ。終戦の端緒を模索する中での発言だが、そこまで対ソ無警戒が広まってゐたのだらうか。「日本を赤化寸前までに追い込んだ『敗戦革命』工作」との前掲論文の標題の通りで慄然とする。

 本紙「国民同胞」の昨年11月号に、評論家・江崎道朗氏のPHP新書『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』が紹介されてゐたが、その第五章に、国文研の前身である昭和10年代半ばの「日本学生協会」と「精神科学研究所」に関する記述がある。その中心にあった田所葊泰先生、小田村寅二郎先生たちの若き日の活動が詳述されてゐる。その中で「南進はマルキスト当初の意図唱導せるところにして、いよいよ彼らの術中に陥り、支那事変の解決なくして、新たに南方進出に身をやつすこととならざるを祈らざるべからざるに至れり」とある。インテリが持て囃した「東亜共同体論」「東亜新秩序論」などの根柢に、戦線を南方へと拡大させ、戦争(敗戦)から革命路線へと導かうとする思想があることを指摘されたのだった。コミンテルン(共産主義化を目指す国際組織)のスパイ、尾崎秀実やゾルゲが摘発される前に、先生たちは南進論の本質を見抜かれてゐたわけである。

 鹿児島での勉強会では、「思想戦」といふ言葉を改めて実感させられてゐる。物事の本質を見抜く感性と眼力の大切さを痛感するばかりである。

(元鹿児島県信用保証協会監事)

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 昨平成29年10月24日(火)から26日(木)までの3日間、国文研有志による皇居勤労奉仕団(岩越豊雄団長以下、男性15名、女性6名、合計21名、東京・神奈川・千葉・埼玉・兵庫・福井などの各地から参集)の一員として参加しました。当初の予定では、10月23日から4日間の予定でしたが、超大型の台風21号の接近のため、23日の奉仕活動は残念ながら中止になりました。国文研としては、今回が7回目でした。

第一日目(10月24日)

 台風は関東から遠ざかりましたが、天気はあいにくの曇りでした。朝七時四十五分を目安に全員が皇居・桔梗門前に集合しました。そこで皇宮警察官から身分証明書による本人確認を受けて皇居に入りました。窓明館(休憩所)で、宮内庁職員から日程の説明や諸注意がありました。その際、両陛下のご会釈を本日の午前中に賜ることになりましたとのお話には大変驚き、また緊張しました。

 9時15分、窓明館の前に各団体が整列し、人数確認の後、係官の案内でそれぞれの奉仕場所に移動しました。私達は蓮池(はす いけ)参集所の近くで街路樹の下の草取りを行ひました。折しも、宮中に参内する安倍総理の車が目の前を通りすぎて行きました。間もなく両陛下のご会釈を賜るため、参集所に移動しました。奉仕団(六団体)毎に整列して両陛下をお待ちしました。

 午前11時、お車が参集所に横付けされ、両陛下が降りて来られました。参集所に入られたところで、両陛下はご一礼されました。そして陛下はゆっくりと一歩一歩進まれます。皇后さまは半歩下がって陛下とともに近づいて来られます。慈愛に満ちた両陛下のお姿を現(うつつ)にして、何とも言へない感動が体の中に湧きおこって、目頭が自づと熱くなりました。国文研奉仕団は三番目にご会釈を賜りました。一礼の後、岩越団長が「東京都、国民文化研究会、総員21名でご奉仕に参りました」と申し上げました。陛下から「国民文化研究会はどのやうな活動をされてゐますか」とのご下問があり、団長がご返答申し上げますと、笑みを湛へて静かにじっとお聞きくださいました。

 最後に、陛下から「お元気で」とのお言葉を賜りました。奉仕団ごとにご会釈を賜った後、ご奉仕を共にした他団体の団長が「天皇陛下、皇后陛下、万歳」と声高らかに先導し、全員で万歳三唱を奉唱しました。両陛下が乗られたお車が参集所を出発すると、団員は両陛下の御手を振られるお姿が見えなくなるまで手を振ってお車をお送り申し上げました。夢のやうな感動のひと時でした。

 午後は係官の案内で吹上御苑を中心とする皇居の西地区を見学しました。最初に二重橋近くの芝生の上で記念写真を撮りました。次に、宮中三殿に移動し、正門の板塀の外で、岩越団長以下全員で、深々と一礼をいたしました。このとき私たちの奉仕団は、門内に案内されるといふ思ひがけない幸せに恵まれました。その日は、宮中三殿の清掃がなされてゐて、その時私たちが塀の外で一礼してゐたからでした。神職の方にご案内いただいて、神殿、賢所、皇霊殿の順に深く一礼して、心清々しい気持ちで門の外に出たのでした。

 次に、陛下ご自身が田作りをされるといふ水田(約70坪)に案内されました。陛下はニホンマサリ(うるち米)と満月モチ(もち米)を毎年200株お手植ゑされるとのことです。4月の種籾蒔き、5月の田植ゑ、9月の収穫をご自身でなさるとのことでした。悠久の昔からの稲作の伝統を、この大都会の真ん中で、陛下が継承されてをられることに、得も言へない感動を覚えました。

 近くには、桑畑が広がってゐました。桑の葉は、皇后陛下が養蚕にご使用になるとのことで、紅葉山御養蚕所では13万頭の蚕が飼育されてゐるさうです。また、陛下が魚類の研究をなさる生物学研究所がすぐそばにありました。そこから、御潔斎所(皇太子妃殿下が心身を清められる建物)の前を通り、多くの盆栽が管理されてゐる大道庭園に行きました。国賓などを宮殿にお迎へした際に飾られる盆栽を見せてもらひました。樹齢380年といふ立派な黒松(重さ260㎏)をはじめ、五葉松(銘三代将軍、樹齢500年以上)や真柏(樹齢600年)などの貴重な盆栽を拝見しました。中でも見上げる程に大きな五葉松(銘根上り五葉、樹齢390年、重さ380㎏)には驚きました。盆栽を宮殿に運ぶときには、八人で御輿を担ぐやうにして運ぶさうです。ここまでで初日の日程を終へ、午後四時ごろ皇居・桔梗門を退出しました。

第二日目(10月25日)

 肌寒く、小雨の降るあいにくの天気となりました。午前8時に赤坂御用地西門前に全員集合しました。一日目と同様に本人確認の後、休憩所で係官より説明を受けました。係官の案内で赤坂御苑内を歩きながら時にユーモアを交へた説明を受けました。決して十分とは言へない人数で広い敷地の樹木などの管理を担当する職員の皆様のご苦労が偲ばれました。私たち奉仕作業が少しでもお役に立てればと思ひました。

 雨のため、皇太子殿下のご会釈を東宮御所の建物の中で賜ることになり、私たちは広間に整列して(六団体180名)緊張した面持ちで殿下のお出ましを待ちました。皇太子殿下がお出ましになり、入り口に近い団体から順にご会釈を賜り、国文研奉仕団の前にお立ちになりました。岩越団長が「東京都、国民文化研究会、総員21名でご奉仕に参りました」と申し上げますと、皇太子殿下から「ご苦労様です。国民文化研究会はどのやうな活動をなさってゐますか」とのご下問がありました。岩越団長からご返答申し上げますと、殿下は大きく頷かれて「どうぞお元気で」とのお言葉を残され、次の奉仕団の前に進まれました。各団体ごとにご会釈を賜った後、団長の一人が先導して「皇太子殿下、皇太子妃殿下、万歳」を声高らかに三唱しました。日嗣の御子のご会釈を目の前で賜るといふ幸せに感謝の気持ちで一杯でした。昼食後、降雨のため午後の奉仕作業は中止との連絡があり、心残りではありましたが、赤坂御用地を退出したのでした。

第三日目(10月26日)

 最終日は、雲ひとつないさはやかな快晴となりました。午前8時前に皇居桔梗門前に集合し、本人確認の後、窓明館に入りました。午前中は主に宮殿の庭を中心に見学しました。富士見櫓の前を通り、西車寄せ、御車寄せ、連翠、表御座所の説明を受けながら、つつじの庭に入りました。湧き水が湧いてゐて小さな池や小川もあるので、蛍の季節には、皇室のご一家で楽しまれることもあると伺ひました。宮殿南庭には、6メートルもの高さがあるといふ大きな刈込みが二つあり、二匹の大きな亀のやうに見えます。18種類もの植物の混ぜ垣つくりのため、色の変化に富んでをり、亀の甲羅のやうに見えるさうです。中庭には、和歌山県の那智の白石が敷き詰められてゐます。貴重な石なので、汚れてきたら洗浄して再利用してゐるさうです。正殿に向って、左側(西)に白梅、右側(東)に紅梅があります。また、屋根には瑞鳥があり、遠くからなので小さく見えますが、2・2メートル(重さ900)もあるさうです。正殿には「松の間」「竹の間」「梅の間」があります。豊明殿は国賓などをお迎へして、宮中晩餐会が開かれるところです。長和殿は一番長い建物(長さ150メートル)です。左側の南車寄せは、国賓や公賓などの方々をお迎へする玄関です。年2回(1月2日と12月23日)の一般参賀の時には、天皇、皇后両陛下と皇族方が、長和殿中央の特設のバルコニーにお出ましになり、国民のお祝ひをお受けになります。多い時には宮殿東庭に1万人から2万人が参集するとのことです。足元に敷かれてゐる石は、香川県産の庵治石(あじいし)で、水はけが良いため、滑らず転びにくい石ださうです。また、東庭の地下には300台の車を停められる巨大な駐車場があると聞いて驚きました。

 宮殿の見学の後は東御苑に移動しました。昭和天皇のご発意により復元された雑木林を通り、二の丸庭園、諏訪の茶屋などの説明を受けました。東御苑には日本人に混って外国の観光客も多く訪れてゐました。さらに都道府県の木が植樹されてゐる林の横を通り窓明館に戻りました。

 午後は、箒などの清掃用具を積んだリヤカーを引きながら、乾通りを進み、東御苑に入り、まづ天守台に上りました。江戸城の在りし日を思ひ浮かべながら、大奥跡や本丸大芝生のあたりを眺めました。東御苑の南側には大手町の巨大なビル群が高く林立してをり、新旧の歴史が同居してゐる光景に不思議な感じがしました。そこから、さらに石室、富士見多聞、松の大廊下跡、果樹古品種園などを回り、見学を終へました。その後、私たちは、東御苑のバラ園付近で植ゑ込みの草取りをすることになりました。それぞれ鎌や箒などの道具を手に精一杯つとめました。

 午後三時に宮内庁で賜物伝達があるため、岩越団長、井原稔団員、私の三人が賜物を戴きに参りました。担当課長から各団長に「天皇陛下からの賜り物です。謹んで伝達いたします」とのお言葉があり、菊の御紋章入りの和三盆糖菓子と皇室写真集が伝達されました。窓明館で岩越団長から、団員一人ひとりに賜物が伝達されました。午後四時、皇居勤労奉仕の全日程を終へ、皇居・桔梗門を退出しました。

 日程は一日短くなりましたが、宮内庁の配慮で、見学を優先して頂いたやうに思ひました。そのため、奉仕作業の時間が短くなったことは心残りでした。十分な作業を務めることが出来なかったにも拘らず、両陛下と皇太子殿下のご会釈を賜り、まことにもったいなく恐縮の至りでした。団員の皆様が無事に三日間の日程を終へたことを感謝したいと思ひます。

(元神奈川県立高等学校教諭)

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          皇太子殿下
   復興の住宅に移りし人々の語るを聞きつつ幸を祈れり

 皇太子殿下には、妃殿下と御一緒に、平成29年11月に宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区の中央第一団地を訪れられ、災害公営住宅の整備の進捗状況などの復興状況についての御説明をお受けになり、引き続き団地に入居された被災者の方々と御懇談になりました。

 皇太子殿下におかれては、復興事業が着実に進み、被災した方々が安心して暮らせる環境が整いつつある様子をお聞きになり、安堵される一方、これまでの御苦労を思われ、被災された方々一人一人の幸せを祈られた思いをお詠みになったものです。

          皇太子妃殿下
   あたらしき住まひに入りて閖上(ゆり あげ)の人ら語れる希望のうれし

 皇太子妃殿下には皇太子殿下と御一緒に、昨年11月に宮城県の名取市閖上(ゆりあげ)地区などの被災地をご訪問になりました。その折、津波被害の大きかった閖上地区に新しく建てられた災害公営住宅に入居された被災者の方々が、生活環境が少しずつ整いつつある中で、今後に向けての希望を見出されてきたことを語られたことに安堵され、嬉しくお思いになりました。

 このお歌は、その時のお気持ちを、被災された多くの方々のこれまでの御苦労を思われながら、今後のさらなる復興を願われてお詠みになったものです。

(宮内庁のホームページから)

皇居勤労奉仕に参加して(詠草抄)

     神奈川県小田原市 岩越豊雄
   畏くも宮中三殿の門に入り宮に向ひて礼拝したり(宮中三殿)
   門を入れば白き小石に囲まるる宮中三殿清らかに建つ
   わが言(こと)を笑みを浮べて聴き給ふ日嗣の皇子に涙こぼるる(東宮御所にて)
   厳かな仮宮殿の伝達室で皇室よりの賜物(しぶつ)賜る(賜物を拝受す)

     埼玉県さいたま市 井原 稔
   雨降りてなすべきこともなせずしてかたじけなくも御会釈賜る
   皇室の弥栄祈り万歳を声高らかにみたび唱へり

     千葉県市川市 宇野友章
   もや立ちて松の緑に朝日さすご奉仕かなひし今日の喜び
   すめらぎときさきのみ前に万歳を三唱すれば目頭うるむ
   園遊会の小橋を行けばそびえ立つ樹々のかなたに武道館見ゆ
   勤労の奉仕のつもりで来つれども見学の時かくも多くて

     埼玉県川越市 奥冨修一
   かしこくも賢所の御前に拝礼するを許されにけり(宮中三殿)
   三殿の塀の外より拝みしに有難くもけふ境内に入る
   目の前の三殿に向ひ心こめ拝礼かなひし身の幸を思ふ
   遠霞む迎賓館を望みつつ青山御所の庭を巡りぬ(東宮御所にて)
   園遊会をまぢかに控へ赤坂の離宮の庭は雨にけぶるも
   雨の降る青山御所の池の面は波立たずしてしづもりてあり
   日御子(ひのみこ)にご会釈たまふひとときのこの幸(しあはせ)を何にたとへむ

     兵庫県神戸市 篠塚豊子
   おごそかに宮中三殿三拝すみ国のたから感極まれり
   はじめてのご会釈たまひ優雅なる皇后さまの「ありがたう」の御声
   両陛下年月重ねて陰陽の睦む尊さお示しくださる

     東京都大田区 島津正數
   偶然に出でまし給へる神職の取り計らひに門内(かどぬち)に入る(宮中三殿正門前)
   目の前に宮中三殿たまさかに仰ぎまつればこころおどりぬ
   神鏡(みかがみ)のまつられてゐる賢所をぢかに仰げる我が幸(さち)思ふ
   外国(とつくに)の観光客の近付きて写真撮りてもよきかと尋ね来(皇居東御苑)
   一団となりて草取り掃除する我らが姿めずらしかりしか
   諾(うべな)ひてみたりの翁もそれぞれに竹箒手にもち写真に納まる

     埼玉県狭山市 藤崎 進


   畏(かしこ)くも身近に会釈賜りぬ千歳の史(ふみ)の悠久の中で
   ご成婚の晴れのパレード日の丸振るわれ小学生の田舎道で

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 元日と言えば新年を寿ぐのが通例であり、この日に何か特別な政治的メッセージが発せられる例はあまりないが、かつて元日に国民に向けて天皇陛下の詔書が発せられたことがある。昭和21年の元日、まだ終戦から四カ月余りしか経っていない、東京にはまだ焼け野が原が広がっていたときのことである。

 1月1日に発せられたことも異例だが、この詔書が占領下にあってGHQが主導し、当初「天皇の神格否定を目的として」企画されたことはさらに異例だった。そのために、今でも教科書などでは「人間宣言」などと呼ばれているが、詔書には人間という言葉も宣言という言葉も登場しない。公的には「新日本建設に関する詔書」と呼ばれている。

 さらに、冒頭に明治元年の「五箇条御誓文」が掲げられていたこともまた異例と言えよう。詔書はこういう言葉で始まっている。

 「茲に新年を迎ふ。顧みれば、明治天皇、明治の初め、国是として五箇条の御誓文を下したまへり」と。こう述べられた後、「一、広く会議を興し、万機、公論に決すべし」からはじまる五箇条が掲げられ、そのうえで「叡旨、公明正大。又、何をか加へん。朕は、茲に誓ひを新たにして、国運を開かんと欲す」と、詔書の冒頭部分には記されている(詔書の片仮名表記は平仮名に書き改めた)。

       ◇

 この冒頭の五箇条御誓文の部分は詔書の原案にはなかった。それを加えられたのは昭和天皇のご意向であった。昭和天皇はのちにその理由をこう述べておられる(昭和52年8月23日、那須御用邸。)

 「それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。(中略)民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条の御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要があったと思います」(引用は高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』)

 なぜ、民主主義が輸入のものではないことを示す必要があったのか。昭和天皇は続けてこう述べられている。

 「日本の誇りを日本国民が忘れると非常に具合が悪いと思いましたから。日本の国民が日本の誇りを忘れないように、ああいう立派な明治大帝のお考えがあったということを示すために、あれを発表することを私は希望したのです」

 敗戦から四カ月余り、GHQが打ち出す占領政策のなかで早くも米国流の民主主義を持て囃す風潮が強まり、また、戦前の日本はすべて悪いものであったとの宣伝も浸透し始めていた。そうしたなか、「日本の国民が日本の誇りを忘れないように」と願われ、「民主主義というものは決して輸入のものではない」ことを示すために五箇条の御誓文を詔書の冒頭に掲げられた、というのである。

 詔書のなかで昭和天皇は「叡旨」つまり明治天皇の思し召しは「公明正大」であり、「又、何をか加へん」、何も付け加えることはないと述べておられる。こんな立派な御誓文から近代の日本が始まったのだ、それこそが日本の誇りなのだとの確信がおありになったのであろう。

 昭和天皇がこの詔書を発せられてから73年。今、昭和天皇が願われた「日本の誇り」を持っている日本人はどれほどいるのだろうかと考えれば、忸怩たる思いがする。五箇条の御誓文が発せられてから150年の今年、この御誓文が誇りを持って各地で語られる年になれば、明治維新150年を意義ある年とすることができる。

(仮名遣ひママ)

一、広く会議を興(おこ)し、万機公論に決すべし
一、上下(しようか)心を一(いつ)にして、盛(さかん)に経綸(けいりん)を行ふべし
一、官武一途(いつと)庶民に至る迄各(おのおの)其志(そのこころざし)を遂(と)げ、人心をして倦(うま)ざらしめん事を要す
一、旧来の陋習(ろうしゆう)を破り、天地の公道に基くべし
一、智識を世界に求め、大(おほい)に皇基を振起すべし
我国未曾有(みぞう)の変革を為んとし朕躬(み)を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大に斯国是(このこくぜ)を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦(また)此の旨趣に基き協心努力せよ。

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 本会名誉会長小田村四郎先生には、旧臘12月9日帰幽された。享年95。告別式(葬場祭)は12月13日、近親者によって営まれた。

 先生は大正12年10月、初代理事長小田村寅二郎先生の御令弟として東京にご誕生。昭和17年、府立高等学校から東京帝国大学法学部に進まれ、昭和18年、学徒出陣。終戦後、復学。昭和22年、同大を卒業し大蔵省に入省。名古屋国税局長、内閣官房内閣審議室長、防衛庁経理局長等々を歴任。昭和53年、行政管理庁事務次官を以て退官。その後、農林漁業金融公庫副総裁、日本銀行監事、日本短資(株)顧問などを経て、平成7年、拓殖大学第12代総長に就任(平成15年退任)。平成5年には勲二等旭日重光章受章の栄に浴された。

 さらに靖国神社崇敬者総代、日本会議副会長、日本の建国を祝う会会長、日本李登輝友の会会長、国語問題協議会会長ほか多方面に亘って活躍された。本会から上梓された御著『占領後遺症の克服』(国文研叢書、平成7年刊)の標題に窺はれるやうに、占領統治によって歪められた我が祖国日本の精神的再建のため尽力された。ことに占領軍起草の「日本国憲法」に内在してゐる国家不在の思想的病理を鋭く指摘されてゐた。

 小田村寅二郎先生歿後の上村和男理事長時代の平成12年から、会長として、その後名誉会長としてご助言を頂いた。本会の中核的事業「合宿教室」では第28回(昭和58年)の雲仙合宿を初めとして、平成16年の第49回の阿蘇合宿まで、講義と講話で6回壇上に立たれた。また本紙『国民同胞』への寄稿は数多に及び、二年前の平成28年3月号所載の「内外情勢の動向と我が国の進路」が最後となった。

 本号に再掲した御論「学徒出陣のこと─東大・緑会『出陣賦』について─」を拝読して、「戦前戦後を貫く歴史の真実」を明らかにするべく思想戦を戦はれたご生涯を改めてお偲びしたい。

(編集部)

 

再掲
学徒出陣のこと
 ─東大・緑会「出陣賦」について─  昭和53年10月号初出

 (略)また12月1日がめぐって来る。昭和18年の「学徒出陣」35周年である。しかしこの学徒出陣について、(略)暗い陰惨なイメージが若い人々の間に定着してしまってゐるのではないだらうか。「この暗い谷間の時代になげき、いかり、もだえながら戦争の中に空しく〝散華〟していった学生たちの切々たる心情」(傍点筆者)。これは左翼出版物の言葉ではない。国立機関により公式に編纂された教育史中の一句である。私は歪曲された歴史に慄然とせざるを得ない。さういふ学生も一部にゐたに違ひないが、このやうな一律的表現は祖国の危急に際し敢然と身を挺して散華された数多の英霊に対する冒瀆である。吉田満氏が「このような編集方針は、一つの先入主にとらわれていると思う。」(「戦艦大和ノ最期」あとがき)と批判された「はげしい戦争憎悪」に満ちた戦没学徒の手記や、偏向したマスコミの形造る映像によって学徒出陣の真相や当時の学生の心情が闇に葬り去られることは、戦中派の我々にとって耐へ難いことである。私が当時の学園のささやかな体験や後記「出陣賦」を紹介しようとするのも、正しい歴史を書き残すことが後世への義務だと思ふからである。

 そもそも学生の徴兵猶予は基本的人権ではない。憲法及び兵役法により、満20年に達した壮丁はすべて兵役に服する義務を負ってゐたのであり、徴兵猶予とは、文教政策上の配慮から在学中の者に対して満24才(昭和16年改正)まで徴兵を延期するといふ恩典を国が与へたものに過ぎない。従って戦時又は事変に際し必要があればこれを停止する場合がある(勅令に委任)のは当然のことであった。

 さて昭和17年に行はれた学年半年短縮措置によって私が東大法学部に入学したのは同年10月であった。前年12月開戦以来、初期に於てこそ赫々たる戦果を挙げたが、6月のミッドウェー海戦を境として米軍は本格的反攻に転じ、数次のソロモン海戦や8月のガダルカナル島上陸等、南海における死闘は益々熾烈となって来た。従って我々は卒業即入隊が当然の規定事実であり、それはまた生還を期し得ざるものであった。学生は学業に励みつつ、週一回の軍事教練には事故者以外は殆ど出席した。また毎日昼休み体育部学生によって行はれた体操指導(自由参加)では、終了後参加者全員で「海ゆかば」を合唱し、その声は三四郎池のほとりに谺(こだま)した。

 18年に入ると戦局は愈々重大化して来た。2月ガダルカナル島撤退(当時「転進」といった)、4月山本聯合艦隊司令長官戦死、5月アッツ島山崎部隊玉砕(大本営発表による最初の玉砕である)と続き、ニューギニアの戦勢も次第に不利となって来た。「学生の態度表情はこの頃から変ったと思う。この年の暮、所謂学徒出陣の前後に於ける学生の態度行動は、世の賞賛を受けた。然し学生が父兄や先輩よりも先ず国家の危急を感じ、何の遅疑することもなく、すぐ覚悟を定めたと感ぜられたのは、私の見るところでは、この頃であった。」(「海軍主計大尉小泉信吉」文藝春秋)と当時の慶應義塾大学塾長小泉信三氏は書いて居られる。9月22日政府は学生の徴兵猶予停止を決定し、10月2日勅令を公布した。これにより、理工系を除く法文経等の学生で徴兵適齢者は12月に入隊することとなった。「学生は待っていたようにこの決定を迎えた。」(小泉氏)とまでいかなくとも、当然来るべきものが来たといふ感じを抱かなかった学生はゐなかった筈である。学業に未練を残しつゝも、肉親との離別を悲しみつゝも、また兵営生活に一抹の不安を抱きつゝも、同年輩の青年が第一線に死闘を展開してゐるとき、筆を投じて祖国の危急に赴くのは国民として当然の義務と誰しも考へたに違ひない。事実、この決定に不満を洩した学生は私の知る限り一人としてゐなかった。

 緑会(東大法学部の学生自治会)は、二ヶ月後に迫る入隊を前にして、出陣の歌を募集した。歌詞と曲の銓衡は緑会委員(出身高校別に学生の推薦によって選任されてゐた)が行ひ、二篇が入選した。後記の「出陣賦」はその中の一篇である。そして学生が専ら愛唱したのはこの「出陣賦」であった。

 緑会の壮行会は11月11日、小石川植物園で行はれた。奇しくも第一次大戦終結の日であった。快晴のこの日、我々は全員で「出陣賦」を合唱し、三浦環(たまき)女史の特別来演もあって、互に名残りを惜しみつつ、先輩の心づくしの生ビールで歓を尽くした。最後に一人づつ末松法学部長の前に進み、「何某征きます」(令息を海軍に捧げられた学部長は「行って来ます」と言ふな、と訓示された)と挨拶して別れて行った。翌12日、東大法、文、経、農各学部出陣学生4千名の全学壮行会が午前9時から安田講堂で行はれ、内田総長から全員に国旗が授与され、「海ゆかば」を斉唱した。同10時、我々は執銃、帯剣、巻脚絆で正門前に整列、宮城に向って行進した。我々法学部学生は先頭として全員で先づ「出陣賦」を合唱し、残留学生の万雷の拍手に送られて出発したのが忘れられぬ思ひ出である。そして二重橋前に整列、「聖寿万歳」を奉唱して解散したのであった。

 いま私の手許に二つ折のやや厚手の菊判大ガリ判刷りの紙がある。銃のスピンドル油であらうか、一部が黒く汚れてゐるが、表に「出陣賦」「出陣の歌」と並んで書かれてあり、その左下に東京帝国大学法学部緑会と書いてある。「出陣賦」が歌はれた期間は僅か1ヶ月の間であり、またそれを知る人は当時の東大法学部在学生2千余人に過ぎない。しかし、この歌は学生が作詞し、作曲し、学生が選び学生が愛唱したといふ点では私は後世に遺すべきものと思ふ。そしてこゝに謳はれた心情は出陣学徒の殆どすべてに共通するものであったらう。苟も齢(よはひ)成年に達し、最高学府に学ぶ学生が心にもない美辞麗句を進んで歌ふなどといふことはあり得ないのである。今でも当時の同窓生は青春の思ひを込めたこの歌を懐しく回想してゐる。当時の出陣学徒が何を思ひ、何を願ったかをこの歌を通じて読みとって頂きたいと思ふ。(略)

(『占領後遺症の克服』所載)

 

  出 陣 賦   大木彬彦作詞
      川添萬夫作曲

一、はろばろと青き空なり
  厳(いか)しくもさやけき朝や
  我等蹶(た)つ醜(しこ)の御楯と
  大君の任(まけ)のまにまに
  眉あげて今ぞ征(い)ゆかむ
二、さばへなす仇共討つと
  風凍る北の島わに
  天燃ゆる南の辺土(はて)に
  愛(は)しけやし祖国をろがみ
  同胞(はらから)は戦ひ死にき
三、陸(くが)行かば山河(やまかわ)とよめ
  海ゆかば潮(うしほ)とどろけ
  海山のい盡くるまでに
  夷(えびす)らのまつろふまでに
  撃ち撃ちて撃ちてし止まむ
四、御(み)空さす銀杏の並木
  仰ぎみて学びし子等は
  汝(な)が姿心に念(も)ひて
  誇りかに生命(いのち)死にきと
  傳へてよ八重の黒潮
五、あゝ我等究めし道は
  一筋の真理(まこと)の精神(こころ)
  戦(たたかひ)の庭に出でては
  荒魂の雄叫び猛く
  征(ゆ)き征きてかへりみはせじ
六、師よ父母よ心安かれ
  男(を)の子われみことかしこみ
  天(あま)翔り國土(くに)翔りつつ
  七つ度(たび)生れ死にては
  護らでや祖國の生命(いのち)

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 本来、「歴史(ヒストリー)」といふのは「物語(ストーリー)」のことである(共にラテン語historiaがルーツ)。このことを本書で体得することができる。作品の着想が面白く叙述も自由で、お馴染みの歴史上の人物が多く登場し、想ひを語り合ってゐる。人間に対する興味が強く、皆、生き生きと描かれてゐて、一気に読ませる。昨平成29年秋に発刊された『親子で楽しむ「マジック消しゴムシリーズ」』の第五作目が本書である。著者(本名・出村信隆氏、本会会員)は石川県金沢市に生れ、富山大学理学部卒業、筑波大学大学院修了後、東京大学で医学博士の学位を取得。外資系医薬品メーカーに勤務するパラレルキャリアの持ち主でもある。「あとがき」で本書の執筆の動機を次のやうに語ってゐる。

 「告白すれば、学生時代、歴史ほど苦痛を感じた科目はなかった。出来事の因果関係も考えず外部表面に触れるだけで、ただ年号を機械的に覚えることに終始していたからだ。しかし、今は歴史を学び知るということが面白い。歴史の内側に入り、歴史上の人々と触れ合い、時にその人自身となり、歴史を体験する。その過程で得た発見は学びの醍醐味である。読み手にとり、拙著『マジック消しゴム』がそんなきっかけになればと願う。(中略)若き世代には、歴史のうちに入ってこそ得られる内的体験を味わい、より良き未来の担い手にとなってほしい。」

 そこで、「未来の担い手」として高校二年生のたけると中学二年生のあすかを登場させ、話し相手に著者の分身と思はれる父親を交へた三人の対話を通して歴史を学んでいく。「歴史の内側に入り、歴史上の人々と触れ合い、時にその人自身となり、歴史を体験する」ために、さらに工夫がされてゐる。マジック消しゴムで当該歴史の時代をマジックビジョンの映像として描き、そこにタイムマシン「スーパーノヴァ」で推参し、過去・現在・未来を自由にタイムトラベルして歴史上の人々といつでも触れ合い対話できる様に仕組まれてゐる。過去の世界に遡り、過去の出来事を書き換へる類の作品とは違ひ、調べた結果の歴史事実をこのやうに認識すると記述されてゐて、歴史を追体験できる。本書は「良き書 重き宝」及び「ホワイトハウスの虹」の二部で構成され、いずれの主題も、内外乱によりわが国の皇統の継続が危ぶまれた歴史上忘れてはならない時代が取り上げられてゐる。

 第一部では飛鳥時代に焦点を当て、『天皇記(すめらみことのふみ)・国記(くにつふみ)』、『国造本紀(こくぞうほんぎ)』の史書を手掛りに、中大兄皇子と中臣鎌足を軸に、乙巳(いつし)の変(大化改新)、皇位継承を巡る天皇(孝徳天皇・皇極天皇・斉明天皇)・皇子たち(軽皇子、古人皇子、有間皇子)との葛藤、臣・阿倍仲麻呂・石川麻呂の最期、稗田(ひえ だ)阿礼(あ れ)の誕生、白村江の戦などの舞台が用意されてゐる。

 第二部では、昭和天皇の御聖断により敗戦を迎へる前後の重要場面が取り上げられる。終戦の詔書の文言、昭和天皇と連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサー元帥との会見、マ元帥の軍歴、日米政権の中枢において暗躍したコミンテルンのスパイのこと、GHQによる日本占領施策などがあげられてゐる。

 一部、二部ともそこに登場する歴史上の人物が、著者の想像力により、思ひの丈を告白したり、語り合ってゐる。あたかもその場に居合せるかの様に書かれてゐるのも、著者の歴史への推参の成果と思はれる。なかでも有間皇子、蘇我系の石川麻呂の最期はあはれを誘ふ。巻末の参考文献は著者の読書の記録でもある。著者が歴史にどう目覚めたかは、どのやうなものを読んだかといふことと深く結び付くものである。

 歴史に物語を回復する本書を、保護者から独り立ちした学生諸氏に是非読んでもらいたい。その際、四作目の『マジック消しゴム・エピソードⅠ「勝者の敗北 敗者の真理」』に「蘇我三代の時代」と「昭和20年の時代」の原型が描かれてゐて、併読をお薦めしたい。

(山本博資)

 

今年の皇居勤労奉仕について

 平成30年の勤労奉仕は10月下旬を考へてをります。月曜日から木曜日までか、火曜日から金曜日までの四日間で、体調不良を除き全日程参加が原則です。10月の第4週か、第3週かで宮内庁に申請する予定です。

 ご希望の方は、氏名、生年月日、住所、電話番号(自宅及び携帯)を3月末日迄にお知らせ下さい。

 平成30年団長 原川猛雄  メールアドレス icb68263@nifty.com  携帯電話 090・8779・8430
 ファックス(国文研事務局 澤部壽孫) 03・5468・1470

 

近刊 昨夏の合宿教室(福岡)の記録
   『日本への回帰』第53集

 

編集後記

 先日、改憲反対の署名活動を目にした。この期に及んで「九条を守れ!」は「座して死を待つ」に等しい政治運動だ。狙ひがレーニンが使嗾した「敗戦革命」路線なら辻褄が合ふ。大メディアがそれに加勢する。
(山内)

 

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