国民同胞巻頭言

第674号

執筆者 題名
澤部 壽孫 御製に親しみ日本の国柄を知らう
- 御製から日本の心を学ばう -
濵田 實 国防基盤と国民道徳の確立を望む
- 今こそ、本質に踏み込んだ憲法論議を展開せよ! -
山内 健生 続・いま改めて仰ぐ太子外交
- 「天子」名乗りの国書と「二つの詔」 -
古賀 智 「正直な心」を忘れさせた書き換へと言ひ換へ
- 「当用漢字制定によって失はれたもの」(補足) -
奧冨 修一 【東京短歌の会】
市川市『万葉植物園』における吟詠会

 「世界遺産」といふ言葉が新聞・テレビを賑はせてゐるが、私達の祖先が記紀万葉の時代から慣れ親しんできた「和歌」は日本が世界に誇るべき「文化遺産」であらう。万葉時代に詠まれた防人の歌を読めば防人の心が、時代の隔たりを超えて、活き活きと現代の私達の心に響いて来る。祖先の言葉に宿る「心」こそかけがへのない「文化遺産」と言へる。

 特に歴代の天皇方の御歌(御製といふ)はどの御歌を拝誦しても「やまとことば」のリズムが良くて天皇方のお心が読む人の心の底に響いて来る。皇室には今でもこの良き伝統が続けられてゐる。

 私達の祖先は何時の時代でも歴代の天皇方のお心を仰いで生きて来た。

 元旦の新聞には前年に天皇皇后両陛下および皇族方がお詠みになった御歌が掲載されるが、その国の元首が国民に向けてのメッセージを歌(詩)で発表する国は世界広しと雖も日本以外にはないと思はれる。毎年この御製を拝し、年齢を重ねるにつれて、皇室への畏敬の念は愈々深まるばかりである。

 今年も慌しく師走を迎へたが、改めて年頭御発表の御製の中から二首を拝誦したい。

 先づ「平成28年熊本地震被災者を見舞ひて」と題する御歌。

 幼子の静かに持ち来(こ)し折り紙のゆりの花手に避難所を出づ

 昨年四月、震度7の大地震が二度続けて熊本地方を襲ひ甚大な被害を齎した。お心を痛められた両陛下は、余震が頻発してゐた5月19日に南阿蘇村と益城町の避難所を見舞はれた。避難所のひとつである益城中央小学校を御訪問になった両陛下は、多くの被災者に膝をついてお言葉を掛けられたが、両陛下のお姿に被災者がどれほど慰められ勇気づけられたかはかり知れない。その途中で女の子が差し出した手折りの折り紙の花を御手にして避難所を出られた時の御歌である。

 両陛下のお出ましを心待ちにしてゐた熊本の被災者と両陛下のお心が通ひあった美しい様が調べも高く詠まれてゐる御歌であると拝する。

 次に「満蒙開拓平和祈念館と題する御歌。

 戦の終りし後(のち)の難(かた)き日々を面(おも)おだやかに開拓者語る

 満州事変(昭和6年)の翌年以降に旧満州国に約27万人の邦人が満州国開拓団として入植した。16歳から19歳までの青少年8万6千人も含まれる。満州国には、敗戦時約155万人の邦人がゐたとされるが、日ソ中立条約を破ったソ連軍の侵攻により筆舌に尽し難い悲劇と苦難に遭遇した。満蒙開拓団もまた軍に動員された4万7千人を除く22万3千人が地獄の逃避行を余儀なくされ、飢ゑ、寒さ、発疹チフス、加へてソ連軍や現地人の襲撃で約8万人が非業の死を遂げた。

 全国で最も多くの開拓団と義勇隊員を送り出した長野県阿智村に、平成25年、「満蒙開拓平和祈念館」が設置された。

 両陛下は昨年11月に満蒙開拓平和記念館を訪問されたが、その時の御歌である。自らの苦難を何事もなかったかのやうに「面穏やかに」語る開拓者の言葉に耳を傾けてをられるお姿が目に浮んで来る。

 陛下はさうした国民が遭遇した苦難の日々を何十年経っても、世の中の思潮がどう変らうともお忘れにはならない。若い人達がこの御製に触れて日本の国柄の良さに目を開けば日本を守る意志は盤石のものになると思はれてならない。日本を守るといふ確固たる意志は日本の国柄の美しさや豊かな日本語に気づくことからしか生れない。

 御製を拝誦することこそが、天皇と国民の心を通ひ合せる最良の道であり、日本の国柄を知り、ひいては日本を守る意志を確立することにつながると信じるものである。

 日本の歴史を若い人達に正しく学んでもらひたいとの切なる念願に始められた「全国学生青年合宿教室」は来年、63回目を迎へるが、一人でも多くの学生の参加を望むものである。

(元日商岩井エネルギー本部副本部長)

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 戦後70余年を自分なりに総括すると、敗戦から今日まで国民の、とりわけ為政者・知識人の「怠惰の心」を憂へざるを得ない。このままでは日本の衰退は免れないと不安と焦燥感を覚える。このことに関する問題提起を三冊の刺激的な書、即ち『マッカーサー憲法の足跡・憲法開眼』(森三十郎著 明玄書房)、『保守の真贋』(西尾幹二著 徳間書店)、『自衛戦力と交戦権を肯定せよ』(小山常実著 自由社)から引用して紹介したい。

   1.『マッカーサー憲法の足跡・憲法開眼』

 本著は昭和43年刊行だが、当時は39年の東京オリンピック開催を機に日本経済は右肩上がり、同時に左翼勢力は益々暴力性を帯びて学生運動も破壊的となり中共に加担する日本社会党の全盛時代でもあった。その危うい時代、本書の「序」に谷口雅春氏は生命的観点から次の言葉を寄せられた。「日本国憲法は、国家そのものに主権はなく、『革命準備憲法』であって日本国家を永遠の安泰の基礎の奥に置くものではない。国家存立の基礎を国民の総意に置くといふことは、国家といふ生命体を人間に譬へるならば、人間といふ生命体は細胞といふ部分の集合体であり、細胞の総意によって、人間存在の基礎が定まる、といふ考へ方である。それ故に人間の主体及び人体の主権は細胞生命にあるのでもなく、もっと『高次の叡智』にあるのである」と。そもそも我が国の国体は、天照大神から始まり天孫瓊瓊杵(ににぎの)尊(みこと)の降臨を経て「天津日嗣(あまつひつぎ)」、即ち天皇が代々「神意を継承」される伝統によるものである。アメリカ合衆国の共和制とは根本的に異にする。

 この「序」を受けて森三十郎氏は、憲法法理の碩学、井上孚麿氏の和歌「この見ゆる雲のはたてに君ありと思ふ心はたのしかりけり」を引用して、そこに井上憲法学の魂ありとして憲法復原の法理を切々と説く。

 日本国憲法の定立行為には当初から重大明白な瑕疵があって、当然に無効と断じてゐる。それは「占領軍政府が国民主権を看板にし、主権の存在する国民の名を語って越権行為をした迄のことである」。ドイツの公法学者たちが所謂「ボン憲法」(西ドイツ基本法)について、これは過渡期の基本法であって憲法ではないと見てゐるが、これにならへば日本国憲法も尚更(なほさら)憲法ではないと森氏は指摘する。そして護憲、改憲論者たちが偽憲法の定立を前提に出発することを強く批判して、我々は先づ帝国憲法に立ち帰ってそこから再出発せよと主張する。

 また基本的人権の「人権」とは本来「国民の基本権」といふべきであり、「天賦の人権」といふ考へ方は造物主から与へられた権利であって明らかにユダヤ、キリスト教からきた自然法思想に基づく。故に「現憲法は明らかに思想的一貫性もなく、何処にも日本国らしいところがひとつもない」と結論付ける。すべての法律行為が現憲法に基づいてゐることを理由に、右の憲法復原の考へ方を非現実的と揶揄する知識人、保守人は後を絶たない。これでは日本国の真姿顕現は叶はない。本来憲法とは「国民道徳」や麗しい日本人形成の基(もとゐ)(原則)でもある。

 思へば昨今、見られる同胞の思想の劣化、小児的現象の根本原因はここに胚胎してゐるのではないか。

   2.『保守の真贋』

 本書は西尾幹二氏が祖国の健全な隆盛を願ふあまりの少々辛口ながら安倍総理への期待をも含む批判言説を含んでゐる。

 今の日本人は上から下まで敗北者に成り下がってはゐないか。「敗北者は精神の深部を叩き壊されると、勝利者に擦り寄り、へつらい、勝利者の神をわが神として崇めるようになる」として、それを自覚しないまま敗北者を演じて日本を窒息させてゐる政治家・保守言論人へ警鐘を鳴らす。その敗北精神は、「戦後70年の安倍談話」や「慰安婦をめぐる日韓外相合意」に見られる政治家のボキャブラリーの貧弱さ、国際情報戦での敗北(今や韓国の官民挙げての工作に中国が後押しをして欧米は「韓国なみに反日化」してゐるが、その歴史戦に対する政府・外務省の無為無策)などに顕著だとする。為政者において、「日本は礼節と武士道の国であったものが、原因は勇気の欠如です。自信、平常時における自己確信、それが欠けていることが、すべてをおかしくしている」と断じる西尾氏の歯ぎしりが切々と伝はってくる。

 「米軍に守られている自分が実は本当の自分ではないという不本意な感情、後ろめたさが伴っていることが常に問題」で、「初めから対等でないという卑屈感が心を離れない。そこに不安がどっかり居座っている。…沖縄の反対運動家たちの剣幕に押されてものが言えないのではなく、日本全体をすっぽり包み込んでいる不安、ないし恐怖が、人々の人間らしい自由の発言を封じている」との指摘には、なるほどと思ふ。

 かうした無気力、無反応といふ国民全体の如何ともしがたい無抵抗、従順、物言はぬ奇妙さが蔓延して、一見平和裏のうちに静かに、時間が過ぎて来て、気が付いたら70余年を経てゐたといふことだ。人間、魂を抜かれて偽憲法下の言語空間の中で馴らされてゐると、いつしか溌剌とした行動ができなくなる。そして安倍政権における「改憲姿勢」(憲法第九条一項と二項を温存して「三項」を追加し、自衛隊の根拠規定とする「加憲」)に西尾氏は「本心はやる気がないな」と直感するといふ。それを勇気ある選択と持て囃す支援者の出現にも驚きと不安を感じるといふ(第九条一項:戦争放棄、二項:陸海軍その他の戦力は不保持、交戦権は認めない)。

 このアイディアを出したブレーンの入れ智恵に健全な思想を見るか否か、待ったなしのときを迎へた際に、国民の真贋を見る力が試される等々、本書はその他ハッとさせられる情報が満載である。

   3.『自衛戦力と交戦権を肯定せよ』

 小山常実氏は本書で「安倍加憲」では一項、二項と「三項」との論理矛盾から、今までの政府解釈を前提に自衛隊は非軍隊組織として定式化され、交戦権を持たないものとなり、これでは外国の侵略に対処できる真の独立国家とならないと説いてゐる。

 将来アメリカが衰退したとき、中国に占領される事態もあり得るとする。「第九条護持」とは、さういふことであり、国際法で認められた交戦権を国内法で否認することは、みすみす侵略国に手を貸すことになる。昨年11月、民進党議員から出された「交戦権」に関する質問主意書に対する政府の答弁書は、「交戦権の行使としては敵兵力の殺傷・破壊は許されないが、自衛権の行使としての敵兵力の殺傷・破壊は許される」といふもので、抽象的かつ卑屈なものであった(戦後日本の政治は、この誤魔化しと曖昧の論理で運営されて来た)。こんなことでは、他国は常に日本にちょっかいを出すことも可能であり日本の勝利は覚束ない。

 小山氏によれば、いま政府並びに国会が進めようとしてゐる「日本国憲法改正」策は現憲法有効説に基づいてをり、次の四種が存在するといふ。①「日本国憲法」を改正しないままで、第九条第二項の解釈を自衛戦力と交戦権の肯定説に転換する=解釈転換・非改正、②「日本国憲法」を改正しないし、解釈も転換しない=解釈維持・非改正、③第九条第二項を削除した「日本国憲法」改正を行う=第二項削除改正、④第九条第二項を維持した「日本国憲法」改正を行ふ=第二項護持改正…である。

 小山氏は四策中では①が最良で、尖閣有事にも対応できるとする。最悪は④であり、安倍「加憲」改憲案がその例になるといふ。安倍改正案は、自衛隊の憲法における位置づけを規定するといふ点ではましだが、二項維持を再確認するやうな改正は致命的であるとする。④よりはまだ②の解釈維持・非改正策の方がはるかにましである(少ない可能性だが度胸があり弁舌能力の高い指導者が現れれば解釈変更を押し通し有事対応ができる。しかしさういふ人材がゐるかどうか…)。③はご想像できるやうに日本復活の道を切り開く可能性がある。以上の比較検証を踏まへると、評価は①、③、②、④の順になるといふ。本書を読まれて仔細に触れることで、より確信を得られると思ふ(小山氏は、国際法および国家の普遍的法理から考察して「日本国憲法」は憲法として有効に存在しておらず無効であると断言する)。

   4.まとめ

 マックス・ウェーバーのいふ「ベルーフ」(天職)意識を有する学者が乏しい今の日本で、1から3の著者の論説は至言だと思ふ。今後憲法論議のなかで真剣に考慮されるべき内容であり、何よりも政府与党が安倍総理の加憲改憲論に引きずられることなく、まづは総務会が陣頭指揮をとり、現憲法は「我が国が主権なき時代」の遺物であるいふ本質論に踏み込んで、与党内及び国民に真実の問ひかけをなすべきである。

 この度のトランプ米国大統領の東アジア訪問はオバマ前大統領の軟弱外交とは対照的であった。安倍外交の奮闘ぶりも見事だったが、同盟国頼りは否めない。トランプ氏も安倍氏も任期がある。憲法は将来をも拘束するものだから本質的議論の上で、盤石の国防基盤を確立しなければならない。中国の習近平国家主席は外交戦術を転換(所謂「微笑外交」)して、我が国政府に対しても既に前述の矛盾を知ってか知らずか「改憲への懸念」を伝へてきてゐる。地政学的にも日本列島の安全確保に一刻の猶予も許されない状況になってゐる。西尾幹二、小山常実両氏の新著は必読の書である。

(元 富士通(株))

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   「天弟、日兄」→「日出処天子」→「東天皇」

 「天子」を自称した国書で煬帝の怒りを買った遣隋使だけに、その返書を帰国の途中で喪失してしまったとは意味深長な記事である。中華的冊封秩序からの離反を意図した使節派遣であったから、その返書がどのやうな内容のものであったかは興味深いものがある。さらに返書紛失を不問にした上で、「其(か)の大国(もろこし)の客等(まらうとたち)聞かむこと、亦不良(さがな)し」として、同一人物が再び入隋してゐるといふのも曰くがありさうに思はれる。

 軽々に論ずべきことではないが、『日本書紀』の記述には洋の東西を問はず今も昔も変ることなき外交的駆け引き、一種の情報戦心理戦が蔭を落してゐるのではなからうか。

 平成の今日、相互主義の外交原則から大きく逸れてしまったかに見える対シナ外交の不甲斐なさを目にするにつけても、「遣隋使」を巡って彼の国との間に何か駆引きがあったのではないかと想像を逞しうしてしまふ。歩み寄ることは考へても、凡そ自らを主張しようとしない今日の外交は、果して外交の名に値するのだらうかなどと繰り言を呈したくなるほどに自らの立場を抛擲してゐる。

(歴代内閣は歴史教科書への干渉を許し、尖閣領海への侵犯を恒常化させ、総理の靖国神社参拝への非難容喙を常態化させて来た。これらはまともな国ならば内閣が吹き飛ぶほどの大失態であるが、マス・メディアは批判しないし、内閣もつぶれない)。

 これに比して、天子に対して「天子」の名を以て実行された一見、無茶に感じられる遣隋使の派遣には用意周到なるものがあったに相違あるまいと思はれてならないのである。

 『日本書紀』には記されてゐないが、小野妹子派遣に先立つこと七年前の推古天皇八年、隋の文帝の開皇20年(600年)にも、倭王の使が入隋してゐる。『隋書』によれば、使者は次の如き言を発したといふ。

 「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出づれば便(すなは)ち理務を停止め、云ふ我が弟に委ねん」

 この文面は「日出る処の天子」といふ国書の伏線になってはゐないだらうかと思って、岩波文庫本の解説(石原道博氏)を精読したら、「日出処天子」「東天皇」の称号の伏線がここに隠されてゐるやうに思はれるとあった。さらに倭王は「天弟」「日兄」であるとする使節の口上についても、文帝は「太(はなは)だ義理無し」と応へたのだったが、シナの「天子」の思想に対する対抗意識が現れてゐるのではないかとも説かれてゐた。

 右の使者の口上を「太だ義理無し」と応対した文帝はさらに「訓(をし)へて之を改め令(し)む」と『隋書』は記してゐる。天子によって冊封される「倭王」なら許容するが、それ以外の名乗りは許さないといふことだらう。

   二つの詔―三宝興隆と神祇祭拝―

 「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」との倭王からの使節の口上は、煬帝の父・文帝によって「太(はなは)だ義理無し」、「訓(をし)へて之を改め令(し)む」と否定されてゐた(600年)。それを承知の上で、新たに「天子」から天子への書状が認められてゐる(607年)。隋皇帝の不興を託(かこ)つことが容易に予想されたにも拘らず「日出づる処の天子」と国書に記した、その依って来たる源泉は何だったのだらうか。

 倭国から「天子」を名乗る国書が届くなどといふことは煬帝にとっては想像すらしなかったことだったに違ひないのだが、しかしながら、父帝の高句麗征討挫折のあとをうけて再征を企図してゐた煬帝は日本を無視し得なかったはずで、その機を逃さずに「天子」から天子に宛た国書が申達された。客観的な情勢判断が確かだったことになるが、大事なことはさうした判断をなさしめた源泉は何だったのかといふことである。

 「日出づる処の天子」云々の国書を携行した推古天皇15年(607年)7月の小野妹子派遣に先立つ同年2月、「神祇祭拝の詔」が発せられてゐる。既に「三宝(仏教)興隆の詔」が推古天皇2年(594年)に出されてゐて、太子による四天王寺・法隆寺などの建立や仏典講究「三経義疏」に窺はれるやうに、広く仏教が受容されてゐたが、詔はそれらによって自らのあり方を自覚するやうになったことを物語るものである。

 十七条憲法に「篤く三宝を敬へ」とか、「共に是れ凡夫のみ」とかとあっても、神祇について何ら触れられてゐないことから、特に江戸時代になると儒学者や国学者、神道家から「神を蔑(ないがしろ)にする胸臆(きようおく)見るべし」(谷川士清『日本書紀通證』)などと批判された。十七条憲法に記載はなくとも、詔に「我が皇祖(み おや)の天皇(すめらみこと)等(たち)」の礼(ゐや)びたまふままに、「今朕(わ)が世に当りて、神祇を祭ひ祀ること、豈怠(あにおこ)ること有らむや、故、群臣(まへつきみたち)、共に爲に心を竭(つく)して、神祇(あまつかみくにつかみ)を拝(ゐやびまつ)るべし」とあるやうに、神々への祭祀は確認されてゐる。さうした中での「日出づる処の天子」の国書だったのである。

 大陸文化(法隆寺を初めとする諸寺院の建立、勝鬘経・維摩経・法華経の仏典研究、暦法・天文などの学習ほか)の本格的な流入期は、同時に自らの根源を問ひ尋ねる『天皇記』『国記』の編纂期(推古天皇28年〈620年〉撰)で、自らの由来を回顧する時期でもあった。「内」にも視線が注がれてゐた。外来文化の摂取が自らの固有性独自性に眼を向けさせた。神祇祭祀の確認も国史の編纂も、それに先行して内発的な自国認識の深化明確化がなければあり得ないことであった。即ち、自覚的に内にも意を注ぐやうになって、中華的冊封秩序とは別個の存在としての自己認識が深まってゐたといふことである。

 「外」への関心が「内」へ認識を深めたはずだし、両者は別々ことではなく表裏して時に因となり果となって相互に数多(あまた)たび啓発し合って、いよいよ以て冊封秩序から離脱といふ自立の意識が醸成されて行ったに違ひないのである。

 推古天皇の御代、聖徳太子の時代に発せられた二つの詔にこそ、シナの統一王朝に対して「天子」を名乗った根源を解く鍵が潜んでゐるやうに思はれるのである。

 ちなみに4千5百首余の和歌を収めた『万葉集』には、在来種の桜を詠んだ歌が40首であるのに対して、外来の梅を詠った歌がその三倍近い118首である。だからと言って、梅に深く馴染んでゐたわけではなく、古来の桜は当り前のことであったから、「新来の美しい花」に惹かれて梅が多く詠まれたのだ(橋本達雄著『万葉集の作品と歌風』)。

 言ひたいことは十七条憲法に神祇の記述がなく、『日本書紀』の太子関連記事に寺院建立や仏像造立の多いことを以て、神祇を蔑ろにしたと見てはならないといふことである

   冊封体制からの離脱と留学生派遣

 さらに『隋書』によれば、隋の開皇20年(600年)の「天弟」「日兄」の記事の直前に「倭王有り、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩(おほ(あめ))𨿸彌(きみ)と号す」と記されてゐる。これらは「天足彦(あめたりしひこ)」「大君(おほきみ)(天(あめ)君(きみ))」を意味する音であって、いづれも当時の天皇の称号であらうとされてゐる。従って「大君・天君」―「天弟」「日兄」―「天子」と続く称号は文飾のシナ王朝の史書『隋書』が伝へる天皇号の前史といふことになる。これを以てしても太子によって導かれた時代精神の昂揚ぶりが察せられる。居丈高に肩肘を張った強がりの主張ではなく、内に深く顧みたところから発した自己認識である。

 前月号で述べたやうに、小野妹子が携行した国書に記された「日出づる処」「日没する処」の表記そのものには別段の優劣の区別はなかったが、仏典注釈書『大智度論』を読んで、そこに東方西方が「日出づる処」「日没する処」と譬へられてゐると記憶することと、さうした知識にいのちを吹き込み「日出づる処の天子」と国書に記すこととの間には質的に測りがたい懸隔がある。

 客観的な情報は多くに越したことはないが、いくら沢山の知識・情報を抱へてゐても、それは単なる物知りであって、抱へた知識を真に時宜にかなった場で駆使することで初めて価値ある情報となる。「天子」の名乗りの根柢にあったものは、太子の「日の本の皇子(み こ)としての信念体験」(黒上正一郎先生の御言葉)であった。

 「天皇」号の使用は推古天皇16年(608年)の国書やその前年造立の法隆寺金堂の薬師像の銘文が早い例であり、その文字そのものは大陸思想の三皇(天皇・地皇・人皇)から来てゐる等々の先学の指摘を俟つまでもなく外来のものであるが、シナの「皇帝に比肩し得る荘厳なる称号」として採用されたのであった(坂本太郎著『日本歴史の特性』)。

 さすれば、江戸時代前期の寛文年間、朱子学を批判して儒学の日本的展開の端緒を開いた山鹿素行が、「東の天皇」云々の国書について「唯太子の大手筆のみに非ず、其の志気洪量にして、能く本朝の中華たるの所以を知る也」と『中朝事実』(寛文3年、1669年)の中で評してゐるのは至言といふべきであらう。

 遣隋使に留学生留学僧が伴はれてゐた一点を見ても、太子の心組が粗野な夜郎自大の対極にあったことは明白である。「天子」「天皇」を生み出した太子の大いなる志は、自国文化の固有性を深く感取したところに源を発してゐたと言っていい。律令制度や技術などで自らを養ふべく学ぶべきは学ぶといふことである。

 素行が言った「本朝の中華たるの所以を知る」とは、比較選択の次元を、超えて「実存的存在たる我」の宿命性に目覚めるといふことである。そこに立つと自他の相違点も共通点も、さらには自己の長短も、はっきりと見えてくる。自らをより高めたいととする意欲が横溢する時代精神の中で、「天子」の名乗りがなされた。冊封体制からの離脱と留学生の派遣は車の両輪であって、「日の本の国」といふ同じ軸で繋がってゐるのである。いま太子外交の真相を仰ぐ理由もここにある。

(元拓殖大学日本文化研究所客員教授)

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 本紙の10月号と11月号に漢字の書き換へを難ずる小論を寄稿したが、執筆中に考へた事の一端を紹介して若干の補足としたい。

 執筆に当っては、漢字の書き換への問題を国語問題に限定する事は問題に対する狭い見方であって、思考への影響をも考へ合せなければ問題の本質に迫る事は出来ないと考へた。なぜならば、我々は国語を以て思考してゐるのであって、その国語が変改されれば必ずや思考にも影響が及ぶはずだからである。

 すなはち、漢字には一文字づつに意味があるにも拘らず、書き換へ後の熟語を元の熟語と同じであるとしたところに嘘偽りと誤魔化しとが認められたのである。この嘘偽りと誤魔化しとが戦後の国語改革の正体であった。そればかりか、思考にも影響して物事を曖昧にしたり嘘をついたり誤魔化したりする浅薄な風潮を招いた事に気附いたのである。

 この嘘偽りと誤魔化しは「敗戦→終戦」の言ひ換へにも見られた。この言ひ換へには惨めな敗北の現実を曖昧にして屈辱感を和らげる効果があったのだらう。またさうでもしなければ国民も遣り切れなかったのであらう。言葉の威力を良く知ってゐたからこそ、あへて「終戦」といふ曖昧な言葉を作ってまでして感情を誤魔化したのであらう。

 しかし、国語改革における漢字の書き換へと言葉の言ひ換への場合には事情は異なる。言葉遊びに近い書き換へと言ひ換へは国語に対する冒瀆であった。更に、国が漢字の書き換へと言葉の言ひ換へとを国民に強ひたところには国民の自由な思考に対する干渉が認められたのである。

 「ちゑ」を「知恵」と書けと国に言はれなくとも、「ちゑ」を「知識のめぐみ」であると真実さう思ふのならば、「知」「恵」の意味を解した上で自らの責任において「ちゑ」を「知恵」と書けばよいのである。それに対して、「ちゑ」は単なる「知識」ではなく、学問を重ねた先にある奥深いものであると考へるのならば、自づと「ちゑ」を「智慧」と書かざるを得ないであらう。それが嘘偽りや誤魔化しの無い自分の心に正直な言葉の使ひ方であると思ふ。

 話は飛ぶが、昭和43年にアメリカの原子力空母のエンタープライズが佐世保に入港した時に核兵器搭載の有無が国会で問題となった。佐藤栄作総理大臣は「核兵器の持込みは事前協議の対象になってゐるが、アメリカ側からその申入れが無いのだから核兵器は搭載されてゐないと考へる」といふ旨の答弁を繰返した。日米安保体制を認めない社会・共産両党を煙に巻くための発言だったにしても、余りに拙劣な誤魔化しだった。このやうな誤魔化しは憲法問題、国防問題、歴史認識の問題などでも同様であった。政治の世界だけではなく、社会全体が物事の本質を曖昧にして深く考へなくなったといふ点では国語の書き換へ、言ひ換への問題と相通ずるやうに思ふ。

 子供の時分から嘘をつかずに正直に生きよと教へられて来たが、長じてみると国全体が大嘘つきであった事に気附いた訳である。聖徳太子の時代には既にこのやうな虚仮不実の世の中になってゐたのだから驚く事ではないのだが、改めて「世間虚仮、唯仏是真」といふ御言葉の意味と重みとを実感するのである。

 「唯仏是真」の「仏」は自分自身の正直な心であると解釈出来る。一休禅師の次の歌がそれを示してゐる。

 極楽は西にもあれど東にも来た(北)道かへせみんな身(南)にあり

 仏のゐる浄土は遠くに在るのではない。それは人の心の中に在るのであって、その内なる仏が真実なのだから自分を信じて生きよといふ意味である。すなはち、嘘偽りや誤魔化しをせずに正直に生きるといふ事はまづは自分自身の心に対してなされる事を本義とするといふ事である。

 しかし、凡夫の身では心の中のどれが仏性を持った真実の心であるのかが分からないから、自分の心を信じる事が我儘に繋がりかねない。そこが道徳教育の難しいところである。まもなく小中学校で道徳の授業が始まるが、「正直な心」をどのやうに教へるのだらうか。子供たちが虚仮の現実社会に出た時に騙されてゐたと思はなければ良いのだがと思ふ。

 道徳教育に関連した事であるが、昭和四十一年に文部省が発表した「期待される人間像」は青少年の人格形成から愛国心の涵養に到るまでのなかなかに良い内容であったと思ふ。無国籍で軽薄な左翼思想のために潰されてしまったやうだが、再評価をして道徳の教材に使っても良いのではないかと思ふ。

 国語問題はここ数年の間、頭を悩ませ続けてきた事柄であったが、浅学が禍ひして本質に迫る事が出来ないでゐた。今回の小論によって頭の中が少しばかり整理されたやうに思ふ。

(元 富士通(株))

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 国文研会員有志らによる月例の「東京短歌の会」では、10月は趣向を変へて例会を千葉県市川市の万葉植物園で行った。あいにく晴天とはいかず雨もよひの中での初めての試みであったが、充実した秋の一日を過すことができた。

   市川市「万葉植物園」

 江戸川を挟んで東京都と接する市川市は『万葉集』にゆかりの深い土地である。特に「真間(ま ま)の手児奈(てこな)」の伝説で知られてをり、それにちなんで詠まれた歌も多数存在する。山部赤人や高橋蟲麻呂など古代の歌人たちが詠んだ歌によって、近くは歌人の北原白秋、作家の幸田露伴、永井荷風などの文人が住んだ街としても、市川市は全国的に知られてゐる。

 万葉植物園は、『万葉集』所載の歌に詠まれた植物を植栽して観賞するためのもので、近畿中部地方はもとより、北は東北の山形県・宮城県から、南は九州の長崎県・宮崎県まで全国各地に七十ヶ所近く存在する。万葉歌人の心を偲び、その自然を愛した心を学ぶためのものだが、市川市の万葉植物園は平成元年6月に開園してゐる。

 武蔵野線市川大野駅から徒歩五分の大野緑地内にある市川市「万葉植物園」を初めて訪ねたが、広さ約一千坪の池水回遊式の和風庭園である。そこに『万葉集』ゆかりの花卉(かき)類、百九十七種類が植ゑられて、それぞれの植物には関連する歌、作者などの説明書きが添へられてゐた。園内は四季折々の花卉が楽しめるやうに植栽され、四阿(あづまや)や藤棚もあって、ベンチに座って鑑賞ができるやうになってゐた。

 今回の吟詠会で鑑賞した草花は、ホトトギス、サネカズラ、ノバラ、シュウメイギク、ハマギク、ノジギク、ツワブキ、コマユミほかであった。

   「真間の手児奈」の伝説

 手児奈(てこな)とは、現在の市川市真間に奈良時代以前に住んでゐたとされる女性の名で、「手古奈」「手児名」とも表記する。

 一説によると、手児奈は舒明天皇の時代(七世紀中頃)、東葛飾郡(現在の市川市を含む)の国造(くにのみやつこ)の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿(葛飾)の国府と嫁ぎ先の国との争ひが起ったため真間に戻った。嫁ぎ先から帰った身を恥ぢて、実家には入らぬまま我が子を育てながら静かに暮してゐた。ところが、都のどんなに着飾った姫よりも清く美しい手児奈の噂は次々と伝はって、里の若者だけでなく都からはるばるやってきて結婚を迫る者もゐたほどだった。手児奈をめぐる争ひで病気になる者や兄弟間でみにくい喧嘩を起す者さへもゐた。

 それを知った手児奈は「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまふでせう。ああ、わたしはどうしたらいいのでせう」と言ひながら、真間の入江まで来たとき、ちょうど真っ赤な夕日が海に落ちやうとしてゐた。それを目にした手児奈は、「あの夕日のやうに、わたしも海に入ってしまひませう」とそのまま海に入ってしまった。翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを見て、可哀さうに思った里人は手厚く葬ったといふ。

 この伝説が都にも伝播し、手児奈を哀れんだ歌人たちが歌に詠んだのであった。

 手児奈の哀しい話は万葉歌人に限らず後の時代の人の心をも揺さぶった。天平9年(737)にこの地に立ち寄った行基菩薩が求法寺といふ寺を建てて篤く弔ったと言はれるし、さらに弘仁13年(822)には、弘法大師空海がこの地に来て、寺の名を弘法寺に改めたといふ。

 手児奈は、現在真間の地を守護する女神として弘法寺境内の「手児奈霊神堂」にまつられてゐる。その向ひ側にある亀井院(寺院)には手児奈が水汲みをしてゐたとされる井戸、「真間の井戸」が今も残ってゐる。

 「真間の手児奈」に関する万葉歌(岩波文庫本)

 勝鹿の真間娘子の墓を過ぎし時山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌

 古に 在りけむ人の しつはたの 帯解き交へて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに(431)

 反 歌

 吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処(おくつきどころ)(432)

 葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ(433)

※「しつはた」=倭文(しつ)〈楮(かうぞ)や麻などで作られた織物〉を織る機(はた)。
※「奥津城」=墓

 高橋蟲麻呂

 勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ(1808)

 下総国の相聞往来の歌四首
 葛飾の真間の手児奈をまことかも吾に寄すとふ真間の手児名を(3384)

 葛飾の真間の手児奈がありしかば真間のおすひに波もとどろに
 ※「おすひ」=磯辺(3385)

 にほ鳥の葛飾早稲をにへすともその愛しきを外に立てめやも(3386)

※「にへす」=饗す【神に〈新米などを〉お供へすること】

 足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(3387)

   吟詠会参加者の詠草から

 (平成29年10月28日)
 この日の参加者は九名。武蔵野線市川大野駅に集合して、午前11時から園内を散策した。メモを片手に万葉植物の説明書きを読みながらそれぞれが短歌を創作。

 昼食後、園内の管理棟二階の研修室(和室)にて、各自が自作の歌をホワイトボードに書き込んで、二時間半にわたって相互批評を行った。

 以下の作品にもみられるやうに、万葉人の心を偲びながらも新たな発見に新鮮な思ひを抱いた喜びが詠まれてゐる。

 次回は春の万葉植物を求めて再訪したいと思った。

       ○

     市川市 宇野友章
植物園に流るる小川のせせらぎを聞きて育つかこのツワブキは
石の上に横たはるごと黒松の伸びる姿の池に写れり

     さいたま市 飯島隆史
雨おつる池面に水輪ひろがりて金色の鯉しづかに泳ぐ
さねかずら雨に濡るれば赤き実の緑葉の中にさやけく見ゆる

     八千代市 中村正則
瘤多き幹に大きな洞のある「にわとこ」樹ちていかめしく見ゆ
万葉の和歌に詠まれし草や木を愛でつつ友らと巡るはうれし
「まんりょう」は「はなたちばな」と初に知り故郷の街の通り偲ばゆ

     川越市 奥冨修一
「まんりょう」を「花橘」と名付けたるいにしへ人の偲ばるるかな
コマユミは早くも赤く色づきて葛飾の秋は深みゆくらし
「吾妹子に逢はず久しも」と歌はれし阿倍橘の実はたははなり

※その万葉歌「吾妹子に逢はず久しもうましもの阿倍橘のこけむすまでに」「すだじい」の生ひたる見れば青山の御所のしひの木思ひ出さるる
※直前の皇居勤労奉仕(10月23日~26日)にて伺った東宮御所玄関前の「すだじい」の大木を思ひ出して

     柏市 澤部壽孫
昼夜に妻を愛せし防人の歌の先づ見え嬉しかりけり
草や木をいつくしみつつおほらかに歌を詠みたる祖先なつかし
「名を問へばシランと母の笑み給ふ」とふ友の句の思ひ出さるる

     茅ヶ崎市 北濱道
池中をゆるやかにゆく大きなる鯉の姿に心なごみぬ

     横浜市 池松伸典
ま白なるハマギクの花芝の上に今をさかりと咲きほこりけり

     東京都 小柳志乃夫
草木見つつかかげられたる万葉歌口ずさみつつゆけばたのしも
草や木と親しく交はる生活(なりはひ)ゆ生れいでけむ万葉の歌
草花をいとしむすがたそがままに人恋ふ心を詠めるともしき
ぬばたまはあやめの仲間黒光る実とは初めて知りにけるかな

   「東京短歌の会」の御案内

 初心者向けの短歌入門セミナーで、短歌結社のやうな党派性はありません。明治時代、短歌革新の指導者であった正岡子規の歌論を栞として学んでゐます。例会では、参加者が創作した短歌を尊重しつつ、お互ひに批評し合ってよりよい表現になるやう心掛けてゐます。

日時 毎月第4土曜日10時~12時
場所 国民文化研究会事務所
電話 03(5468)6230
内容 自作短歌の発表、相互批評
(事前にメールで左記に詠草をご 提出ください) 送付先 佐野宜志(seitairyou@hotmail.co.jp)

(元 東急建設常務取締役)

 

 編集後記

 米国は北のミサイルが自国領土に届くのは容認できないと、遅蒔きながら北への政治・外交・軍事で圧力を強めてゐる。それに引換へ、わが国は領土に届くどころか、平成10年以来、5回上空通過を許してゐる。しかも今年8月の北海道上空通過の際は通告なしだ。通告があればいいといふものではないが、これほど国威の失墜を物語るものはあるまい。しかしながら、いまだに国会の国防論議は、どう自国の手足を縛るかが論議の中心だ。安倍内閣は米国の対北圧力に足並みを揃へてゐるが、もし米国の圧力策がなかったらどうなってゐたのだらうか。
(山内)

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