国民同胞巻頭言

第638号

執筆者 題名
磯貝 保博 「18歳選挙権」の前にやることがある
- 15歳、橋本左内の「稚心を去れ」「気を振ふ」に学べ -
島津 正數 皇居勤労奉仕に参加して
- 「勤労奉仕に参加できた清々しさ、満足感」 -
皇居勤労奉仕歌だより
大岡 弘 明治天皇の靖國神社招魂式の御製に想ふ(下)
- 靖國神社参拝といふ責務 -
東郷平八郎元帥の歌
高村 光紀 追想 亀井孝之君
- 「柔道」の授業を選択したことから始まった交流 -
新刊紹介 名越二荒之助・拳骨拓史著
『これだけは伝えたい武士道のこころ』
普遊舎 税別1,000円

 新聞報道によれば自民、民主、維新、公明など与野党七党は、現在20歳以上の選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる公職選挙法改正案を共同で衆議院に提出した。解散で廃案になるが、与野党合意を実績として示すため、あへて提出したといふ。そして、来年の通常国会で再び提出し成立させるとのことである。

 11月6日の産経新聞社説「主張」では〈責任を自覚する「大人」へ〉と題して「来年の通常国会中に改正法が成立、公布されれば、28年の参院選では高校生の一部を含む240万人が新有権者となる」、「選挙権は主権者の国民が行使する民主主義の柱」であり、その「有権者の中で若い世代の層を厚くすることは高齢化が進む日本にとって大きな意義がある」、「権利の行使には責任が伴うということを、若い世代はよく考えてほしい」と説いてゐた。

 この社説を読み終へて、自分の18歳の頃、選挙に対してどんな気持ちを抱いてゐたかを思ひ出した。当時と現在では、政治状況も社会状況も当然ながら違ふが、政治への関心は私に限らず、全体として今よりは強かった。投票率も高かったはずだ。「日米安保条約」の改定をめぐっては反対運動が学生を含め全国的に展開されてゐた(安保闘争)。高校生であった私は昭和35年(1960)6月には国会議事堂の前をデモ隊の一人として声高に安保反対≠叫んでゐた(今では若気の至りであったとの思ひがしなくもないが、それなりに「公」への関心を抱いてゐた)。その後20歳となって初めて投票した時、自分も一人の国民として日本の政治に関与できたといふ満足感を抱いたことが思ひ出された。

 それにつけても、今の若者を見てゐると、20歳を過ぎても大人になったといふ自覚が足りないのではないかと思はれるのだが、一体どんな気持ちで投票してゐるのだらうか、選挙と自分をどう位置づけてゐるのだらうか、との思ひが湧き来るのを禁じ得ない。今、18歳に選挙権年齢を下げることは必要なことなのか。

 選挙で一票を投じる際は自分なりの判断をもって一人の政治家の名前を書く必要がある。少なくとも、日本の政治を良くしてくれるのはどの政党の誰なのかを決めねばならない。そのためには日本の国家の在り方や国防の在り方等の「公」について普段から考へておく必要がある。投票行為によって若い人たちにさうした自覚が高まることを私も期待したいとは思ふ。とはいへ、前記の社説にあるやうに〈責任を自覚する「大人」〉になるためには学校教育の充実、特に道徳教育や歴史教育の充実が必須であるが現状はどうであらうか。やうやく「道徳の教科化」や高校での「日本史の必修化」が指向されてゐるが、遅きに失してゐる。

 「日本人としての自覚をもとめて」は国文研の「合宿教室」が目指す根本的な課題である。東日本大震災では日本人相互の助け合ひの精神、同胞感が世界の人々から賞賛された。「国民同胞」といふ言葉は今日では殆ど使はれないが本誌のタイトルでもある。この「日本人としての自覚」や「国民同胞感」は、〈責任を自覚する「大人」〉であれば当然に内心に湛へておくべきものであらうが、教育の場で重きが置かれて来たとは必ずしも言へない。それらは日本人の歴史を彩(いろど)って来た偉人の生き方を仰ぎ学ぶことによってのみ身に付くものと考へる。

 江戸時代末、「安政の大獄」で26歳の若さで斃れた越前藩の橋本左内は15歳の頃、「自分は何をしても中途半端で弱々しい性格のため、いくら学問をしても進歩がない。これでは父母の思ひに応へることも藩や主君のお役に立つこともできない」と深く自分を恥ぢて、『啓発録』を書いてゐる。その中で「稚心を去れ」として幼な心を取り除いて武士の本分を尽し、「気を振ふ」として負けじ魂を養ひ、「志を立つ」として忠孝の心を持つと意を決し、「学に勉む」として優れた人の行ひや事業を習ひ、「交友を択ぶ」として友をよく見て共に学問・武芸の交りを深めたいとの決意を述べてゐる。

 今日の「18歳選挙権」論議を見るてゐると、まづは左内の『啓発録』を読めと訴へたくなるのである。

(元講談社資料センター室長)

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 去る平成26年10月27日(月)から30日(木)までの4日間、国民文化研究会有志による皇居勤労奉仕団(山本博資団長、井原稔副団長以下、男性21名、女性9名、合計30名)の一員として、皇居及び赤坂御用地の勤労奉仕に初めて参加しました。国民文化研究会としては、今回が4回目の皇居勤労奉仕でした。

   午後に、皇太子殿下のご会釈が…

 第1日目は、赤坂御用地での作業でした。全員、朝7時45分、秋晴れの赤坂御用地西門前に集合し、皇宮警察官から身分証明証による本人確認を受けて御用地に入り、事務所で宮内庁の係官から勤労奉仕に係る諸説明、諸注意を受けました。

 赤坂御用地は、中央に春秋2回の園遊会の会場となる赤坂御苑があり、北側に東宮御所、南側に秋篠宮、三笠宮、高円宮の宮家のお住ひがあります。当日は秋の園遊会に向けて準備が進められてゐました。最初の作業は、東門付近の道路、公孫樹・樫・椎の木の根元の落ち葉・銀杏掃きと運搬でした。

 清掃作業の最中、宮邸に戻って来られた秋篠宮妃殿下は、お車を降りられて、団員にご会釈がありました。「ご苦労様です。どちらからお越しになりましたか。御奉仕は大変でせう」とお声をお掛け下さり、丁寧にご会釈をされました。両陛下をはじめ「国民とともに」あられる皇室の伝統を団員一同は肌で感じ、感激した一コマでした。

 引き続き、赤坂御用地の青山通り沿ひの道路、植込み、広大な芝生の上の落ち葉や枯れ枝を掃き、運搬をしました。最初は小さな袋に落ち葉や枯れ枝を集め、次に大きな袋に詰め直してリヤカーに載せ、集積場まで運びました。午前・午後の清掃ですっかり綺麗になりました。

 午後3時45分の皇太子殿下のご会釈を賜るため、東宮御所お車寄せ前の庭に、今回ご奉仕を共にした6団体170余名が整列してお待ちしました。初日にご会釈とは、緊張しました。定刻に皇太子殿下がお出ましになりました。皇太子殿下が国文研奉仕団の前にお立ちになられた時、山本博資団長が「東京都、国民文化研究会、総員30名でご奉仕に参りました」と申し上げますと、皇太子殿下はにこやかなお顔でおだやかに「ご苦労様です」「国民文化研究会はどのやうな活動をなさってゐますか」とのご下問がありました。山本団長から「国民文化研究会は、我が国の歴史を学び、日本の良き伝統、文化の普及に努め、次代を担ふ青少年の育成を目的として活動してをります」とご返答申し上げますと、殿下は大きく頷かれて「どうぞお元気で」とのお言葉を残され、次の奉仕団の前に進まれました。

 各団体ごとにご会釈を賜った後、6奉仕団の団長の一人(富山県からの奉仕団)が「皇太子殿下、皇太子妃殿下、万歳」と声高らかに先導し、全員で万歳三唱を行ひました。大きい声を出さうとした時、ぐっと胸に熱いものが込み上げて参りました。

 感激を胸に第1日目が無事に終り、午後4時30分、赤坂御用地を退出しました。

   両陛下のご会釈に感激

 第2日目は、皇居での作業となりました。雲ひとつない晴天。朝7時45分、全員が皇居・桔梗門前に集合。皇宮警察官の点呼を受け、皇居に入りました。窓明館(休憩所)で、宮内庁の係官から2日目の日程、皇居の説明、諸注意を受けました。作業前に係官から皇居東御苑の案内がありました。

 皇居の広さは35万坪、東御苑の広さは6万4千坪。同心番所、百人番所、大番所、お手植ゑの果樹園、松の廊下跡、大奥跡、二の丸、本丸、書陵部、香淳皇后の還暦を記念して建てられた桃華楽堂、楽部、諏訪の茶屋、昭和天皇の御発意で作られた武蔵野の面影を残す雑木林、回遊式庭園、今上陛下がインドネシアの鯉と日本の錦鯉とを掛け合せて産み出された長いヒレを持ったヒレナガ錦鯉等々の説明を受けた後、宮内庁自動車班建屋横の庭の草取り、落ち葉掃きをしました。

 午後は天皇・皇后両陛下のご会釈を賜るため、午後1時30分に全員蓮池参集所に集合。奉仕団毎に並んで両陛下をお待ちしました。午後2時、お車が参集所に横付けされ、両陛下が降りて来られました。

 陛下は、気品のある、優しく温かみのある御笑顔で、ゆっくり参集所に入って来られました。皇后陛下は半歩下がって陛下の足元にお気を配られながら入って来られました。

 国文研奉仕団は二番目にご会釈を賜りました。一礼の後、山本団長が「東京都、国民文化研究会、総員30名でご奉仕に参りました」と大きな声でご紹介申し上げますと、陛下から「国民文化研究会はどのやうな活動をされてゐますか」とのご下問があり、団長は「古典や和歌など日本の良き伝統、文化を学生青年に伝へていくことを使命として、毎年夏に合宿教室を開いてをります。59回目の今年は淡路島の淳仁天皇様の御陵の近くで開催しました」とご返答申し上げました。

 さらに、陛下から「どのやうな和歌を学ばれてゐますか」とのご下問があり、団長は「御製や御歌を手本に学んでをります」と奉答しますと、皇后陛下から「皆さんも歌を詠まれるのですか」とのお言葉があり、団長から「はい、全員で歌を詠み、相互に批評を行ってをります」とお答へ申し上げますと、両陛下は大きく頷かれました。笑みを湛へて静かにじっとお聞きになる両陛下のお姿に大変感銘を受けました。最後に、陛下から、「お元気で」とのお言葉を賜りました。

 奉仕団ごとにご会釈賜った後、一緒にご奉仕した伊勢市からの奉仕団の団長が「天皇陛下、皇后陛下、万歳」と声高らかに先導し、全員で万歳三唱を奉唱しました。感激の瞬間でした。両陛下が乗られたのお車が蓮池参集所を出発すると、団員は窓側に寄って両陛下の御手を振られるお姿が見えなくなるまで手を振ってお車をお送り申し上げました。

   オランダ国王の歓迎式典に遭遇

 第3日目は、朝8時、全員が皇居・桔梗(き きょう)門前に集合。皇宮警察官の点呼を受けました。午前8時45分から作業を始め、宮内庁庁舎前の蓮池濠の芝生、植込みの落ち葉掃きをしてをりましたところ、係官から今日は国賓として来日中のオランダのウィレム・アレクサンダー国王ご夫妻の歓迎式典が行はれるので、暫く待機ですと告げられました。待機の間に、両陛下のお車が奉仕団の前を通って宮殿の前庭に走って行きました。安倍首相の車も坂下門から宮殿の方に向って行きました。

 9時過ぎに歓迎式典が始まったらしく音楽隊の演奏が聞えてきました。暫くして、式典に参加した陸上自衛隊儀仗隊、自衛隊・皇宮警察・宮内庁各音楽隊が隊列を組み、日蘭両国の児童生徒も歓迎の両国国旗を持って退場してきました。勤労奉仕の作業中に国賓の歓迎式典の一部を垣間見ることができたのは幸運でした。待機が解け、長和殿東庭近くの道路と植込み及び溝の落ち葉掃きを行ひました。

 午後は、御所、吹上大宮御所、豊明殿、長和殿、正殿、昭和殿の説明及び長和殿東庭、天皇・皇后両陛下と皇太子殿下・皇太子妃殿下のみがご使用になる御車寄せ、それ以外の皇族が使用される西車寄せ、高さ六米の大刈込のある南庭、那智の白石が敷いてある中庭等を見学しました。作業は南庭の落ち葉掃きと草取りをしました。

   陛下が田作りされる水田

 第4日目は、前日と同じく朝8時に桔梗(ききょう)門前に集合。幸運なことにこの日も快晴でした。午前中は、宮内庁庁舎、乾通り、大道を経て両陛下が散策・自然観察をなされる吹上御苑の側を通りました。次に沢山の盆栽が管理されてゐる大道庭園に到着。オランダ国王を迎へるため、宮殿玄関に飾られてゐた根上り五葉は、樹齢380年、重量380キログラムといふ盆栽でした。その他、三代将軍、真柏、鹿島等の銘を持つ盆栽が並んでゐました。宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)の正門前では、山本団長以下全員で一礼のみ、柏手なしの古式のしきたりに則って深々と拝礼いたしました。

 その後、陛下ご自身がお手播き、お手植ゑ、お手刈りをされた水田に案内されました。陛下はうるち米(品種はニホンマサリ)、もち米(品種は満月モチ)を毎年200株お手植ゑされるとのこと。この畔を通って陛下がお手植ゑされると聞いて私もその畔を少し歩いてみました。近くには陸稲の畑、桑の木があり、桑の木の葉は皇后陛下が養蚕にご使用になるさうです。近くに生物学研究所がありました。作業は、水田、陸稲の畑、倉庫付近の草取り、落ち葉掃き、溝掃除、倉庫内の清掃でした。大きな袋に落ち葉、草を入れて、集積場に運びました。陛下がお手植ゑ、お手刈りされるその水田の周りの草取りと落ち葉掃きをしたことは、一生の思ひ出となりました。

 午後3時、宮内庁賜物伝達室で担当課長から賜物伝達があり、山本団長と小野吉宣、上木原巌、私の三班長が賜物を戴きに参りました。担当課長から各団長に「天皇陛下からの賜り物です。謹んで伝達いたします」とのお言葉があり、菊の御紋章入りの和三盆糖菓子と皇室写真集が賜物として伝達されました。我が奉仕団は、窓明館に戻って山本団長から我が奉仕団の団員一人ひとりに天皇陛下のお言葉を添へて賜物が伝達されました。

 午後4時、皇居勤労奉仕の全日程を終へ、皇居・桔梗門を退出しました。天候にも恵まれた4日間でした。皇居及び赤坂御用地での勤労奉仕に参加ができた清々しさ、満足感に浸りながら来年もまた皇居でお会ひしませうと言葉を交し、団員の方々と別れました。

(元三菱重工業(株)監査役室長)

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八千代市 山本博資

     赤坂御所にて(10月27日)

この年の「木枯らし一番」吹きにけり皇居につとむる我らが初日に
並び立ち日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)のお出ましを待てばおのづと心昂(たか)ぶる
ご下問に答へまつればなめらかに言葉出でこず心残れり

     蓮池参集所でのご会釈(10月28日)

両陛下傘寿を迎へ給ひたる秋のご会釈あやに畏(かしこ)き
大君に我らがつとめを述べ得たることの嬉しき至らざれども
大(おほみうた)御歌(おほみうた)と御歌(みうた)を学び民草の日々をつとむると答へまつりぬ
はしなくも皇后(きさいの)宮(みや)のひとことをのらすを聞けば畏(かしこ)かりけり
両陛下の御前(みまへ)に友らと万歳を三唱すれば胸つまり来る
室内(へやぬち)に「万歳」の声とよもしてひびきわたれり天に届けと

     勤労奉仕を終へて(10月30日)

賜りし「和三盆糖菓子」を吾妹子(わぎもこ)と頂きまつる奉仕(つとめ)語りつつ

※来年の秋にも皇居勤労奉仕が予定されてをります。後日、本紙でお知らせ致します。(編集部)

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   4.国家存亡の不安な日々

 小泉信三氏に次の一文がある。

  「近代日本の歴史において、真にわが国の独立がおびやかされた日といえば、1905年(明治38年)5月27日はまさしくそれであった。この日早暁、遠く本国から地球を半周して来攻したロシアの大艦隊は、未明の日本海にその姿を現わした。そうして、海軍大将東郷平八郎の率いたわが連合艦隊によって完全に撃滅されたのである」(『産経新聞』、昭和39年2月10日付朝刊)。

 小泉氏は、この記事を執筆した二年後に、三笠保存会主催の講演会で次のやうにも語ってゐる(『正論』平成16年12月臨時増刊号)。

 

「この大艦隊は、果していつどこに現はれるか。万一にも、この艦隊の、少なくとも、その主力のウラジオ入港が成功したならばどうなるか。更に、万一にも、わが艦隊が撃破されたならばどうなるか。日本そのものの存亡はどうなるか。

私は今もよく覚えてをりますが、その後の日々における、日本国民の苦しい不安といふものは、実になんともいへないものでありました」。

   5.決戦に向けての招魂式

 三国干渉より苦節10年、祖国存亡の瀬戸際(ぎは)に立たされた日本の命運を一挙に決定することになるロシア艦隊との決戦を前に、明治天皇は、日露戦争の戦歿者を靖國神社に合祀する旨、また、合祀の翌日から3日間、臨時大祭を挙行する旨仰(おほ)せ出(い)だされた。日本海海戦のひと月ほど前の、明治38年4月24日のことである。そして、5月2日の午後7時より、日露戦争戦歿者に対しては初めての招魂式が、祭典委員長伊東祐亨(すけゆき)海軍大将のもと粛々と執り行はれた(靖国神社としては第31回目の招魂式)。伊東大将は、日清戦争時の連合艦隊司令長官である。

 明治天皇は、5月3日の臨時大祭初日には、勅使を御差遣になられた。また、5月4日の臨時大祭2日目には、皇后とともに靖國神社に行幸啓なさる御予定であったが、御違例(おやまひ)のため、天皇御名代として伏見宮貞愛(さだなる)親王を、皇后御名代として閑院宮載仁(ことひと)親王妃智恵子を、それぞれ靖國神社に参向せしめられた。5月5日の臨時大祭の3日目には、皇太子嘉仁(よしひと)親王が、皇太子としては初めて靖國神社に行啓された(以上は、靖國神社編『靖國神社100年史 事歴年表』、昭和62年)。

 厳(おごそ)かに執り行はれた招魂式の荘厳な模様は、時期により多少の相違はあるであらうが、靖國神社編『靖國神社遊就館図録』(平成20年)に記載の「招魂式次第」の説明内容に従ふと、それは、おほよそ次のやうになる。

 日本海海戦の25日前の明治38年5月2日の夜半、東京九段坂上の靖國神社では、日露戦争戦歿者に対しては初めての、合祀の招魂式が行はれた。境内の一隅にある招魂斎庭(しょうこんさいてい)には、萱(かや)ぶき屋根・黒木(くろき)造りの簡素な仮(かり)霊舎が建てられ、その霊舎には、霊璽簿(れいじぼ)を納めた御羽車(おはぐるま)(御神霊がお乗りになる神輿(みこし)が据ゑられた。霊璽簿にその名が記された戦歿者達の「み魂」をお招きするのである。

 一連の儀を経て霊璽簿にお降りになった3万余柱の戦歿者達の「み魂」をお乗せした御羽車は、総ての燈火が消される中、儀仗兵の栄誉礼を受けて招魂斎庭を発進、前後に行列をなして参列の遺族のあひだを静かに遷幸し、本殿の外陣に向かふ。本殿内陣の奥に奉斎の御神体の「み鏡」には、嘉永6年(1853)以降の殉国の英霊達が、既に数多(あまた)鎮まってをられる。

 やがて御羽車は本殿の外陣に到着する。ここで宮司は、御羽車から霊璽簿を奉戴し、捧持して、さらに奥の内陣に参入する。そして、御神体の「み鏡」が鎮まる御神座(ごしんざ)の間近に霊璽簿を奉安するのである。ここに、三万余柱の「國のためいのちをすてしもののふ」達の新たな「み魂」は、霊璽簿から御神体の「み鏡」に乗り遷られる。

 まさにその瞬間に思ひを馳せられて、はるか宮城の内廷にて詠ぜられたと解釈されるお歌が、前号冒頭に掲げた次の明治天皇の御製である。

          鏡
     國のためいのちをすてしもののふの魂や鏡にいまうつるらむ

 御製のなかの「うつる」とは、「遷る(移る)」の意と思はれる。

 全国民の緊張と不安がまさに頂点に達しようとするこの祖国危急存亡の時に、明治天皇は、日露開戦以来、祖国防護の戦ひに勇戦奮闘し、祖国に殉じた三万余の将兵達を偲ばれつつ、その「み魂」を、護国の英霊達にとっての「とこしへの御神座」、靖國神社の「み鏡」に合祀せしめられたのである。また、御予定の靖國神社臨時大祭への行幸こそは叶はなかったが、招魂式の当夜、合祀の瞬間に思ひを馳せられて、宮城内廷にて御製を詠ぜられたのである。この臨時大祭の間(かん)、明治天皇は、内廷において、山県有朋参謀総長、並びに、再び戦地に赴かんとする児玉源太郎満州軍総参謀長に、それぞれ謁見を賜ってをられる(『明治天皇紀 第11』、昭和50年、吉川弘文館)。

 このやうな国家的な祭祀(ある意味での国家的規模の同胞祭祀)を執り行はれることによって、天皇陛下が、古(いにしえ)からの神々に対してはもちろんのこと、殉国の英霊達にも感謝の誠を表され、国の行く末に加護を祈られるといふ御姿勢。そのやうな御姿勢が生み出すところの御威光、強い御威勢の表現こそが、天皇陛下に対して使用される「御稜威(みいつ)」といふ独特の大和言葉なのであらう。そのもとで、はじめて全国民は一つになって、伸(の)るか反(そ)るかの一大決戦に立ち向かふ心意気を発揮することができるのであらう。また、父祖達、先人達の激励をも感ずることができるのであらう。

 東郷平八郎連合艦隊司令長官は、日本海海戦の直後に佐世保に入港し、次の一首を詠んでゐる。

     日の本の海にとどろくかちどきは御稜威(みいつ)かしこむ声とこそしれ

 東郷司令長官は、日本海海戦の輝かしい勝利は、天佑神助のもと、多くの御神霊に護られた「天皇陛下の御稜威」の賜物(たまもの)であったと、心底から得心したのである(小柳陽太郎 他編著『名歌でたどる日本の心』、平成17年、草思社)。

   6.今、果たすべき課題(2)

   明治天皇は、翌明治39年に、次の御製を詠んでをられる。

          鏡
     靖國のやしろにいつくかがみこそやまと心のひかりなりけれ

 ここに「いつく」とは「斎(いつ)く」で、「崇(あが)めたてまつる」の意である。

 祖国日本を守り抜いた父祖達の歴史を顧み、戦歿者達の御魂を奉慰・顕彰することは、本来、国家が果すべき重要な責務である。その奉慰・顕彰の姿は、我が国の文化、伝統に則したものでなければならない。靖國神社は、その中心施設である。

 我が国の首相は、国家主権を害する内政干渉を断乎斥(しりぞ)けるとともに、政府・国民を代表して、年ごとに靖國神社に額(ぬか)づく重要な責務を負ってゐる。護国の英霊達の御前(みまえ)に感謝の誠を捧げ、祖国防護の誓ひを年ごとに新にすべきであると思ふ。

 御親拝のための「天皇陛下の靖國神社行幸」は、明治天皇7回、大正天皇2回、昭和天皇28回(戦前に20回、戦後に8回)を数へる。行幸実現に向けて、安倍首相は意を用ゐるべきではないか。そのためにも、安倍政権並びに各政党が、党派を超えて祖国日本を守るために今取り組まなければならない重要な課題は、靖國神社への年ごとの参拝なのだと思はれてくる。

 同時に、安倍政権と各政党には、三井甲之(こうし)詠の次の一首を想起され、前号で触れたやうに、防衛力の飛躍的充実に向けて歩を進められんことを切望する。

     ますらをの悲しきいのちつみかさねつみかさねまもる大和島根を

(元新潟工科大学教授)

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 東郷平八郎は鹿児島県出身の海軍大将、元帥。日露戦争の際に抜擢され、連合艦隊司令長官をつとめた。

 明治38年(1905)5月27日早暁(そうぎょう)、全国民が固唾(かたづ)を呑む中、哨戒(しょうかい)中の「信濃丸」が敵の艦影を発見。東郷司令長官はただちに連合艦隊に出動を命じた。午後1時55分、旗艦「三笠」のマストに高くZ旗を掲揚して、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」 との命令を発信、総員、戦闘態勢に入った。午後2時5分、わが主力艦隊は敵前大回頭、午後2時10分、戦闘の砲門を開いた。

 ロシア・バルチック艦隊三十八隻を二日間で殲滅(せんめつ)し、世界海戦史上未曾有の奇跡的戦果を挙げた日本海海戦の幕開きである。

3日後の30日、東郷司令長官は佐世保に入港。その折の作。

     日の本の海にとどろくかちどきは御稜威かしこむ声とこそしれ

 「御稜威(みいつ)」とは、多くの神霊に護られた天皇陛下の強い御威勢の意。東郷司令長官は、日本海海戦の輝かしい勝利は、天佑神助のもと、「天皇陛下の御稜威」の賜物(たま もの)であったと心底から得心したのである。

 大正3年(1914)、皇太子裕仁(ひろひと)親王殿下(のちの昭和天皇)が学習院初等科をご卒業になったあと、それに伴ひ東宮御学問所が開設され、東郷元帥がその総裁に選任された。その折の心境を詠んだ歌。

     おろかなる心につくす誠をばみそなはしてよ天(あめ)つちの神

 「みそなはす」は「見る」の尊敬語。「天つちの神」とは天地のあらゆる神々の意。この歌に示された神に通ずる至誠をもって重任を完(まつと)うしようとする覚悟は、東郷元帥の生涯を貫いた心情であった。

 小柳陽太郎他編著(国文研版)『名歌でたどる日本の心』から(1,500円 送料290円)

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 本会会員、亀井孝之氏には去る9月23日朝、逝去。享年数へ73歳。昭和17年2月、横浜市のお生れで、神奈川県立鶴見高等学校から亜細亜大学商学部に進まれ、在学中は夜久正雄先生のご指導を受けられた。昭和39年4月、ご卒業とともに皇宮警察本部に奉職。皇宮護衛官として、38年間ご勤務。この間、警視長に昇進され、皇宮警察学校副校長や赤坂護衛署署長などを歴任された。

 亜大在学中は学内サークル「国民思想文化研究会」の中心となって活躍。夏の合宿教室には3回ご参加。ご卒業後は国文研会員として、関東地区の活動や合宿教室の運営など本会の諸活動全般に尽力された。

 ご勤務の早い時期、「斑鳩会(いかるがかい)」を創設主宰され、@小田村寅二郎・夜久正雄著『天皇と天皇制に関する基本的思考』(昭和40年4月29日発行)A三井甲之著『今上天皇(昭和天皇)御歌解説』(昭和42年4月29日発行)B『謹選詔勅集―明治・大正・昭和―』(昭和43年11月3日発行)を刊行されたことは特筆される。
(編集部)

   私は黒帯、亀井君は白帯だった

 亀井君との出会ひは忘れもしません、大学に入学して授業が始まり、最初の体育の時間でした。体育は数種目からの選択で、「スキー」(冬季の集中授業)か、「柔道」(毎週一度の授業)かで迷った末、柔道を選択しました。30〜40人ほどの受講生が武道館に集まり、担当の先生を待って居る時でした。何気なく振り向くと少し大柄な学生と目が合ひ、ひとことふたこと言葉を交しました。

 それから数日後、その学生とはスペイン語の教室で再び会ひました。それが亀井孝之君です。柔道は私にとって、縁結びの神のやうでした。

 体育の時間、柔道場では、いつも彼と組んで「乱取り」をしました。亀井君は私より一回り大きな体格でしたが、私は高校時代に得た黒帯で、彼はまだ白帯だったので、在学中私が投げ飛ばされることはありませんでした。卒業後、彼は皇宮警察でしっかり腕を磨き三段か四段かになってゐたさうですから、現役中に一度リベンジしたかったと、向うの岸で残念がってゐるのではないかな?などと想像しますが、もはや私など目ではなかったでせう。

 以来、学内・学外とも常に彼と一緒に行動する日常となりました。

 亀井君は入学後すぐ新聞会に入部し、編集の打合せを何度もしてゐました。しかし、部員が少なかったこともあって、発行には苦慮してゐたやうでした。ある時、彼から一緒に新聞づくりしよう≠ニ熱心に誘はれました。新聞づくりのイロハも知らない私にとって、腰が引ける思ひでしたが、新聞会活動に寄せる彼の強い心意気を感じて、入部することにしました。また、彼は学内の体育・文化各クラブの活動などを調整・推進する学生組織「学友会」の広報関係の部長としても活動するやうになりました。新入学生向けオリエンテーション資料の冊子を一緒に作らう≠ニ誘はれました。

 あの大きな体で、柔らかくゆったりした口調で言はれると、私はいつもいいよ≠ニ返事してしまひます。冊子に名所旧跡を載せようと、大学近辺や多摩地区を二人で歩きまはって調べました。歩き疲れて音をあげるのはいつも私で、心身ともにタフな彼でした。

   夜久先生の「朗読」を録音する―亀井君の熱意はもの凄かった―

 授業では、ゼミが始まると私は別のゼミを選び、亀井君は夜久正雄先生のゼミを受講しました。

 彼から幾度か夜久ゼミの様子を聞いてゐる内に興味がわき、亀井君から先生にお願ひしてもらって受講のご許可を頂きました。私はゼミ二股で、夜久ゼミ準受講生として仲間に入れて貰ったのです。夜久ゼミの友人たちとはいまだに再会の機会があります。嬉しいことです。

 部活の新聞会にせよ夜久ゼミ、そして国文研の合宿教室にせよ、私の学生生活は殆どと言っていいくらゐ、亀井君からの誘ひや導きであったと言っても過言ではありません。

 大学の柔道場で背中合せに座ってゐた者同士が、偶然の会話を縁に昵懇の仲になり生涯の友とならうとは、私にとってとても尊くありがたく掛けの替へない出会ひでした。

 授業を終へると二人で夜久先生のお宅にお邪魔させて頂くことが度々ありました。御製や古事記についてのお話が多かったやうに記憶しますです。あるとき、勉強会や輪読等での教材にしようと古事記の朗読テープを作ることになりました。夜久先生による朗読です。50年以上前のことですから、ごつい録音機でリールテープをまはし、先生の朗読を録音するのですが、そこにバックグランドミュージックを流すわけです。

 彼が選曲してきたのは「マドンナの宝石」でした。演奏のオーケストラはロンドンフィルか、ポールモーリアか覚えてゐませんが、とても綺麗な曲でした。先生の張りのある艶やかなお声と、物哀しさを奏でる調べの組み合せは素晴らしく、古事記の舞台が眼前にぱあっと現れるやうな感じがしたことを思ひ出します。彼の音楽センスがどうであったかあまり覚えはないのですが、あの時の選曲は素晴らしいものでした。

 同じテープ作りの場面では、先生の朗読のリズムと音楽との調和や音の強弱など、微調整のため何度もやり直すのです。私はいい加減な人間ですから、こんなところでもういいんじゃないの?≠ニにささやいても、彼は迷ふことなく人差し指を一本立てもう一回、もう一回≠ニ続けるのです。先生もお疲れの様子を見せず、朗読を繰り返します。

 おつき合ひ下さった夜久先生のお心も凄いですが、さうさせてしまふ亀井君の純な熱意はもの凄いものでした。今振り返りますと、作品に妥協を許さない名プロデューサーといった感じでした。

 卒業後、皇宮警察での真面目な働きぶりは、既に彼の精神に醸成されてゐたのかも知れません。皇宮護衛官として警視長に昇任、皇宮警察学校の副校長や、陛下の側衛(側近護衛)、さらには赤坂護衛署の署長の大役を務めたと聞いて、諾(むべ)なるかなと思ひ、彼の友人であることに誇りを覚えました。

 録音作業の時だけでなく、先生のお宅に遅くまでお邪魔して、時には先生の奥様が夕食を作って下さり二人で戴いたことも思ひ出されます。

   柔和な人柄に惹きつけられた

 大学からの帰路、彼は鶴見、私は国分寺ですから、中央線の武蔵境駅で上りと下りに別れるのですが、そんなことは稀で、大抵は二人で新宿か東京へ行くことになります。新宿では西口飲食店街小路の安くて超大盛りのカレー店でした。東京駅では八重洲口から銀座8丁目まで新橋の甘党店を目標に歩きます。店に入ると客は女性ばかりだった覚えがありますが、注文は「あんみつ」です。彼は甘辛両刀使ひでしたが、私はアルコールだめ人間でした。ですから、コンパでは当然のやうに並んで座り、私の席のお酒は彼に、彼のデザートは私の方に、といった具合にいつもうまく折り合ってゐました。

 国文研の合宿は、東京青山での春合宿(昭和37年3月)を皮切りにその年の夏の阿蘇合宿、翌年の雲仙合宿等すべて亀井君と一緒でした。東京から九州の合宿地に向ふ往路と合宿を終へての復路は、鈍行列車で途中下車を繰り返す気ままな旅がまた楽しみでした。貧乏旅行を続けて、二人ともへとへとになって帰京したことが懐かしく思ひ出されます。

 私は、我慢するとか人の話をゆっくり聞くとかは、どちらかといふと不得手でした。ところが亀井君は、私と正反対でした。一言で言へば優しいのです。じっと待てるのです。頼もしい「男の優しさ」です。もちろん女性にも優しく、私の知る限りでは、彼の悪口を言ふ女性はゐませんでした。

 学生生活の4年間、よくもまあ飽きずに…と言はれてもをかしくないほどいつも一緒でした。彼とは何故あんなに一緒に居ることができたのか、未だによくは分りません。彼の魅力としか言ひやうがないです。亀井君は、若者には稀な「気配り」がしっかり出来る人でした。心の強さと、優しさを兼ね備へた柔和な人柄が、私を惹きつけてゐたのだと思ひます。

 大学卒業後、彼は東京勤務、私は名古屋です。暫らく経って、私が社用で上京しても彼の勤務は自由度が少なく、たまにしか会へませんでした。先生方のご様子や仕事の話などすることがありましたが、彼は仕事の特殊さや厳しさ等を話すことはあっても、愚痴のやうなことは聞いたことがありません。彼の仕事への懸命さが伝はってくるだけでした。

 14年前、私は会社を定年退職し、亀井君が退職する日を首を長くして待ってゐました。また彼と合宿教室に参加し、帰りの旅行も楽しもうとの狙ひでした。彼も退職し、念願叶って一緒に参加した合宿はあったのですが、お互ひ合宿疲れで残念ながら復路の寄り道は出来ませんでした。亀井君と一緒に参加して最後となってしまった昨年8月の合宿教室(神奈川県厚木市七沢)では、少し不自由な足を庇ひながらの参加で、道中も相当頑張って汗をかきかき駆けつけて来た姿を目にし、彼の真面目さが一層心に沁みました。

 亀井君の体調が回復したら、沖縄にも、新潟にも行かう!と話してゐたのですが…。

 彼が居ないと思ふと寂しい気持ちでいっぱいなります。

 亀井君の冥福をただ祈るのみです。(平成26年11月20日記)

〈元中京コカ・コーラボトリング(株)〉

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著者のお一人、拳骨拓史(げんこつ たくふみ)氏は名越二荒之助先生門下の「漢学・東洋思想・東洋史」の研究家、作家で、昭和51年のお生れである。

名越先生は国文研の理事を長年お務めになり、平成19年に亡くなられた。戦後5年間のソ連抑留を経て復員されるや岡山県の公立高校で教鞭を執られ、昭和30年代の教育界をわが物顔に牛耳ってゐた日教組と正面から対峙されてゐる。その後、教頭を最後に大学に転じられ高千穂商科大学教授として、「わが日本国の真姿顕現」ために、縦横に活躍された。私は合宿教室だけでなく都内でも何度か先生の講演を拝聴してゐる。先生が昭和43年、家永教科書裁判で国側の証人として出廷、時流の「反権力」を看板にする原告を批判された際には傍聴もしてゐる。

先生には周知のやうに多くのご著書があるが、本書刊行の経緯について、先生のご長女・高草真知子さん(麗澤大学講師)が「あとがき」の初めに左のやうに書かれてゐる。

「平成19年4月11日、父、名越二荒之助は、84歳の生涯を閉じました。亡くなる一ヵ月ほど前、自分の病気が進行の早い癌であることを悟った父は、病室に愛弟子の拳骨拓史氏(当時30歳)を呼び次のように語りました。

日本人は戦後、日本の否定的な面ばかり教えられてきたが、日本には武士道という美徳がある。武士道というと新渡戸稲造の『武士道』を思い出すが、新渡戸武士道は1899(明治32)年に書き終えたもので、その後の日清・日露両戦争や大東亜戦争での武士道は書かれていない。その時代にこそ武士道に基づいた感動のエピソードがたくさんある…。先人たちの武士道精神を、若い君からぜひみんなに伝えてくれ。頼んだよ

その思いを受け、拳骨氏は父の残したアウトラインをもとに書き進め、三ヵ月後に『これだけは伝えたい武士道のこころ』を上梓しました」

本書は、陸空海自衛隊の幹部教育の副読本として採用されとのことだったが、その後絶版となってゐたものを、「こんな時代だからこそ、この本を大勢の人に配り、読んでもらいたいと思ってゐるが、どこを探して手に入らない。ぜひ再刊して欲しい」との先生の知人を初め何人もの方からの依頼があって、「皆様の熱意に押されるような形で出版を決意しました」と高草さんはお書きになってゐる。

第1章の「シドニー湾潜入の松尾敬宇大尉の老母、まつ枝刀自(とじ)の濠州訪問」の話に始まって第七章まで、各章各頁に敵ながら天晴れと言はしめた先人の高潔果敢な行実(ぎょうじつ)の記述が続く。時に口惜しくも悲哀に満ちた史実も記されてゐるが、日本人が誠心誠意、全力的に生きてきたことが記されてゐる。帯に「日本人が知らない、感動の近現代史が満載!」とあるが、その通りであった(本当は「知らない」では済まされないのだが、大事なことを欠落したままの戦後の教育情報空間に改めて慄然とさせられる)。

巻末の「第二次世界大戦考」には戦中期の発言なども多く紹介されてをり、必読の書である。
(山内健生)

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編集後記

先日、「憲法と平和を守れ!」と大きく書かれた広報車を目にした。憲法と平和が同義語的に通用する現状は悪い冗談だが、マス・メディアの大勢、ほとんどの地方紙は“冗談”に拠るべきを説いて止まない。被占領期、わが国の頭を抑へるべく押し付けられた“日本国憲法”。そこには“諸国民の公正と信義”に自国の安全を委ねるとあって、自主防衛の抛棄が謳はれてゐる。「竹島・拉致・尖閣」、そして小笠原領海での中国船の珊瑚密漁は、平和憲法≠ェ招来したものだ。
(山内)

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