
第635号
執筆者 | 題名 |
白濱 裕 | 「証拠より論」の時代 - 朝日新聞の「居直り」検証!?記事に思ふ - |
折田 豊生 | 身近に仰いだ松本唯一先生の「思ひ出」 - 河村幹雄先生を終生、仰がれた - |
藤新 成信 | 大日方学 学兄をお偲びして |
大日方学兄 追悼(抄) - 『短歌通信』から - |
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平成27年 歌会始の詠進要領 | |
新刊紹介 |
朝日新聞は、8月5日付と6日付の両日にわたる各2頁の特集記事を組み、いはゆる従軍慰安婦°ュ制連行説の元になった吉田清治氏の慰安婦狩り¥リ言について根拠がないと、過去に報道した関連記事を32年ぶりに取り消した。しかし、一面では編集委員の「慰安婦問題の本質 直視を」と題する論文を掲げ、「私たちはこれからも変わらない姿勢でこの問題を報じ続けていきます」と居直った。そして、「強制性はあった」「ことは女性の人権問題だ」などと論点をすり替へ、まさに、「白旗を掲げつつ進軍ラッパ」(藤岡信勝氏)を吹き続けてゐる。
このニュースに接したとき、私は名コラムニスト、山本夏彦氏の次の一文を思ひ出した。「論より証拠というけれど、証拠より論である。論じてさえいれば証拠はなくなる。…ただし、一人ではいけない。徒党してがんばらなければいけない。がんばれば大ていの証拠はうやむやになる。…証拠より論の時代は、当分続く」(山本夏彦「独言独語」)
かくて、朝日新聞を始め、大手の複数メディアが徒党を組んだかのやうに強制連行を唱へ続けた結果、米国各地に慰安婦像が建ち、現在も子供たちは「…従軍慰安婦として強制的に戦場に送りだされた若い女性も多数いた」(東京書籍)と記載された教科書で学び、私立中学の入試に南京事件と共に出題され続けてゐる。
戦後史を振り返っても、「証拠より論」の言説によって、どれだけの若者が惑はされ人生を棒に振り、国益を損ねてきたか。冷戦時代、進歩的文化人やマスコミは、資本主義国=悪、社会主義・共産主義国=善といふマルクス階級史観の図式で、旧ソ連や北朝鮮を「地上の楽園」と賛美し、毛沢東の奪権闘争で大粛清が行はれた文化大革命では「紅衛兵達の眼は澄み、北京の空は青かった」と報じた。学校現場では、日教組がその刷り込みの先兵を務めてきた。
今日の尖閣、竹島の領有問題においても、「歴史的証拠」を無視し棚上げ論が唱へられ、集団的自衛権をめぐっても、中国の軍拡、海洋進出など我が国をめぐる劇的な安全保障環境の変化に目をつむり、安保条約と自衛隊による抑止力の現実を見ようともせず、「平和は戦争をしないという不戦の決意と努力によってのみ達成できると信じている。言い換えれば、憲法九条の維持、順守である」といふやうな投書(8月14日付、熊本日日新聞)が連日紙面を飾ってゐる。
昭和30年、竹山道雄氏は先の大戦を振り返り、「それにしても、何故ああいうことになったのだろう?」といふ疑念に答へるため、激浪怒濤の昭和史を検証した『昭和の精神史』を著した。そして、「人間はなまの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮べた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをなまの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば『第二現実』とでもいったようなものが成立する」といふ結論に到達した。
今日の我が国の喫緊の課題は、先に挙げた投書の憲法9条教≠ニでも言へる「第二現実」に支配された言論空間をどう打破するかである。そのためには、左翼メディアなど国内の「反日軍」との戦ひに止まらず、国際的情報(歴史)戦の両面において、「証拠」をもとに勝ち抜かなければならない。相手の意向を尊び忖度する日本的な「察し合ひの文化」は、「主張する文化」に支配された中韓をはじめとした世界を相手には全く通用しないのである。
幸ひ、安倍政権は民主党の失策の後始末をしながら、「地球儀を俯瞰した価値観外交」を展開し、「特定秘密保護法の制定」「集団的自衛権に関する憲法解釈変更の閣議決定」「教科書検定基準の見直し」など、これまでの政権が先送りにしてきた課題に果敢にチャレンジし、憲法改正を大目標として、大車輪で「戦後レジームからの脱却」を図ってゐる。私達国民も、「証拠より論の時代は、当分続く」であらうことを肝に銘じ、情報戦、歴史戦を戦ふため、「上下(しようか)心ヲ一(いつ)ニシテ」努めなければならないと思ふ。
(元熊本県立高等学校長)
屡々お宅をお訪ねした
世界的な地質学者として高名な松本唯一先生は、桁外れの秀才であり、しかも偉大な人格者であられた。私がその謦咳に接し得たのは、昭和59年、先生が91歳でお亡くなりになられる迄の晩年の10年間に過ぎなかったが、先生はなほ矍鑠としてをられ、その飽くなき探求者、求道者としてのお姿から、筆舌に尽し難い多くのものを学ばせて頂いた。
先生は栃木県の御出身で、第一高等学校、東京帝国大学理科大学を首席で通され、ハーバード大学への留学を終へられた後、福岡県の明治専門学校、九州帝国大学を経て、熊本工業専門学校、熊本大学の教授として教鞭を執られ、初代理学部長をお務めになられた。
先生は、当然、東京帝国大学にお残りになるべきところを、様々な事情から九州においでになられたのだが、私共にとっては、先生の御教示を仰ぐ機会を得るといふ願ってもない幸運に恵まれることとなった。私は熊本大学在学中、信和会といふ学生サークルで学んでゐた。松本先生の熊本大学時代の教へ子で中学校の理科の教師をしてをられた松浦良雄先生に御縁があり、松浦先生の御紹介でサークルの仲間と共に松本先生を屡々お訪ねすることとなった。
先生のお宅に伺った時、先づ驚いたのは、先生と奥様が玄関で正座され、深々とお辞儀をしてお迎へ下さったことである。お暇するときも同様で、私共学生に対しても丁重に御対応下さったのである。恐縮の極みだったが、そのお姿は仰々しくなく、まことに自然だった。
応接間に通されて伺ふ先生のお話はいつも多岐に亘って緻密でダイナミックであり、5〜6時間があっといふ間に過ぎた。夜の12時を回つたのに気付いて、もうお暇しなければと申し上げると、奥様が「うちはいつも、12時がお茶の時間で3時頃寝るんですよ」と仰って下さり、それに甘えて、辞去する時刻は一時を過ぎることが多かった。
先生は7人兄弟の4男、6番目のお子様としてお生れになつた。先生のお父様は実家を継がせるお積りで、先生は栃木中学を出られた後、地元の学校で代用教員をしてをられたが、東京帝大で学んでをられた5歳年上の兄、彦七郎さん(後に東北大学教授)が帰省された折、「こいつも学問ができるから、是非、東京へ出して貰ひたい」とお父様を説得して下さつたことで、俄かに一高を受験することになったといふ。「受験勉強の十分な時間がなく、一高は尻尾で受かりました」と言ってをられたが、その後は、東京帝大理科大を御卒業になられる迄首席で通され、恩賜の銀時計を受けられた。
河村幹雄先生を敬仰された
一高時代は、芥川龍之介、山本有三、菊池寛、久米正雄、倉田百三、矢内原忠雄等々、錚々たる方々が学友であり、先生がそれらの人々を君付で呼ばれるのをお聞きして、遠い書物の世界の人物が俄然目前の人になった思ひがしたものだった。特に当時、折々読んでゐた倉田百三については、先生が「倉田君は学生時代から一角の人物だと思って密かに尊敬してゐました」と仰られたこともあり、その後、深い親近感を持って読むやうになった。
松本先生は東京帝大に進み地質学を専攻されるが、それは、兄彦七郎さんが「これは偉い男なんだぞ」と言って学友の河村幹雄先生に引き合はせて下さったことによる。
河村幹雄先生は、北海道の御出身で海軍兵学校を二回受験されたが体格検査で不合格となり、やむなく一高から東京帝大理科大地質学科に進まれたのである。河村先生もまた東京帝大の特待生で恩賜の銀時計を受けられた桁外れの秀才であり、教師の中に「さん」付けで呼ぶ人がをられたほどの人格者でもあられたのである。松本先生は、忽ち河村先生に惹かれ、生涯の師として敬仰される。まさによく似た稀有の個性が互ひに引き合ふやうにして出会はれたと思ふのである。松本先生は「河村先生がお書きになられた地質図はこの上もなく美しい。それは少しも誤魔化しがないからです」と幾度も仰ってをられた。松本先生の丹念な地質踏査は夙に有名であるが、それはまさに河村先生の厳しい学究姿勢に倣ったものと拝察されるのである。
ゼネラリストでもあられた
松本先生も河村先生も、地質学のスペシャリストであり、同時にゼネラリストでもあられた。
例へば、河村先生が紹介される場合は、地質学者だけでなく、教育学者・哲学者・宗教家とある。その何れもが相応の実績を遺されたといふことなのであり、御専攻の地質学の外に、国家・国防・外交問題、学校の在り方に係る教育問題、欧米思想批判、人としての在り方に対する考察、キリストと親鸞を中心とした宗教思想研究等々、今それらの広範に亘る遺文を拝読しても悉く示唆に富み、少しも色褪せるところがない。
松本先生もまた、河村先生に劣らず幅広い御活動をなさった。御専攻の地質学について世界的に名声を博する業績を遺されるとともに亡くなられる直前迄学会の重鎮として精力的に関与されたばかりでなく、敬愛する軍神松尾敬宇中佐の顕彰、井上梧陰(毅(こはし))、元田東野(永孚(ながざね))等、熊本の先達の偉業を啓発するための肥後道統顕彰会、教育を憂ふる千人委員会の運営など、戦後社会の思潮是正のために、正に八面六臂の御活躍をなされたのである。これらのすべての御活動は、普段の飽くなき学問の収斂するところであり、須らく、古今東西の書物を渉猟された独学勉励は元より、応時に実践された古典輪読等の共同研究と切磋琢磨、著述や学会における客観的な学術発表等に裏打ちされたものなのである。
松本先生と河村先生には多くの共通点がある。既述したことの他にも、海軍を志願されたこと、歴史文化に精通され熱烈な愛国者であられたこと、語学が達者であられたこと、門下生が多数いらっしゃることがあり、そして、御臨終の御様子もまたよく似てゐるのである。
日露戦争の勃発は松本先生が12歳の時で、先生は少年ながら当時の新聞を日々熟読されたとのことで、悉くスクラップブックにして残してをられた。当時、海軍の広瀬武夫少佐(戦死後中佐)は青少年の憧れの的であり、先生も「少佐の玄関番になりたい」と海軍を熱望してをられたさうである。先生が後に河村先生から頂いた書物の余白に「余は海軍提督たらん」と書かれてゐたことを回想され、「河村先生も余程海軍がお好きであられたんですね」と笑ひながら話してをられた。しかしながら、松本先生の場合は極度の近眼のため、海軍兵学校を断念せざるを得なかったのである。
短歌を詠まれ外国語にもご堪能
松本先生も河村先生も熱烈な愛国者であられたが、それは殊に欧米社会の学術思想との比較における日本文化の評価に根差したものと思はれる。この時代の人々に共通する歴史文化への造詣の深さは、普段の生活における短歌詠草など、伝統的学問の実践の内に醸成されたものであり、何より敬愛の念を以て歴史文化を学ばれた結果でもあらう。このお二人もまた明治から昭和にかけての激動期にお心を煩はされること甚だしいものがあったであらうと拝するばかりであるが、その波乱の時代においても祖国の歴史文化と国体に対する信条は些かも揺らぐことなく、終生、混迷化していく世相に警鐘を鳴らし続けられたのである。
河村先生も、松本先生も(奥様も)、数多くの短歌を遺してをられるが、古い時代から先人たちが親しみ勤しんできた短歌の道は、我が国の歴史そのものと言へる宝であり、人々はこれを敷島の道と呼び、自己修練の手立てとして実践してきた。したがって、短歌の修練はそのまま歴史文化への推参を促すものであり、天皇も庶民も斉しくこの伝統的詩歌を通じて感応相称の世界の裡にあったのである。それが我が国の本質的な姿であり、独自の文化を形成してきた源とも言ふべきものである。
河村先生の語学力が群を抜いてをられたことについては様々なエピソードがある。その一つに一高時代、モーリスと云ふ米国人の教師がゐて、同じ英語教師であった夏目漱石も手を焼くほどその英語は難解だったといふが、河村先生だけはこのモーリスと自由に会話をしてをられたさうである。しかし、その河村先生が最も力を注ぐべきであると強調されたのは、国語教育であった。
松本先生も語学力が抜群であられ、あるとき、教会の外国人牧師と論争になり、最初は日本語だったが議論が白熱していくに連れ何時しか英語に変ったといふ話がある。私共がお伺ひした折にも、ある時は学生時代の英語のリーダーの教科書の名文を、ある時はゲーテの独語詩を、またある時はロマン・ロランの仏語詩を恍惚とした面持ちで暗誦して下さったものである。地質学はラテン語を使ふことが多く、それをベースにお二人とも欧州の数ヶ国語を自在に駆使してをられたばかりでなく、西欧の歴史文化にも幅広く精通してをられたものと拝察する。
両先生の御最期
河村先生も松本先生も、御生涯のひとときも安易に過ごされることなく、夥しい数の教へ子達の教育教化に心血を注がれたのであるが、そのお姿はまさに「死して後已む」の感を催さしめる。
河村先生は、お亡くなりになる直前、ベッドの上で正座をされ、訪れた人々に慇懃にお別れの言葉を述べられ、国家の後事を託して、その後、僅か小半時も経たぬまに永眠されたといふ。 松本先生の御最期については、御長男幡男様が御葬儀の遺族挨拶で述べられたやうに、御臨終のひと月半余り前、済生会病院のベッドに正座して大楠公湊川討死の場面を朗誦された後、東方を遙拝され、国歌君が代を二度奉唱して眠りに就かれたまま最期の時を迎へられたといふ。松本先生は河村先生の御最期を語られた折、「私もあのやうにありたい」と漏らされたのであるが、その御生涯の最後の最後に至る迄、松本先生は河村先生と共にあられたやうに思はれるのである。
(元熊本市環境保全局東部環境工場長)
(熊本ロータリークラブでの卓話から)
私を支へる大きな力であった
早いもので急逝した大日方学(おびなたまなぶ)兄のご葬儀(4月15日、横浜市の妙蓮寺)に参列して既に4ヶ月が経った。数へ51歳の働き盛りの逝去であった。蜘蛛膜下出血だったといふ。
4月1日の朝、教頭として二校目となる県立厚木清南高校で職員を前にした着任挨拶の途中で倒れ、意識不明のまま4月10日に息を引き取ったと聞いて、言葉を失ひ、奥様や中学生の御子息の胸中を察して胸が痛くなった。当人もさぞかし無念なことだっただらう。
以来、澤部壽孫先輩が編集する『短歌通信』に寄せられた師友からの追悼歌を目にして、改めて兄や奥様、お子様、ご両親様のご胸中を思ふばかりであった。多くの哀悼歌を拝見するたびに、大日方兄のお人柄を思ひ出してゐた。
兄は神奈川県の高校で教鞭を執りながら、例年国民文化研究会のいろんな事業に協力してくれた。後輩達のために、自らも学生時代に参加した合宿教室の円滑な運営に心をくだいてくれたのだ。とくに第51回合宿教室(霧島、平成18年8月)では、不肖私が合宿運営委員長で、兄に副運営委員長(東日本統括)として支へてもらったことは、本当に有り難いことであった。
忙しき中にも霧島合宿を手伝ひくれしみ情けを思ふ
運営委員は1年を通して各地の委員と連携しながら合宿教室の開催に向って参加者勧誘に始まって、大小にわたって様々な業務をこなすが、兄はさらに二度三度と合宿教室の成否に直結する指揮班長の重責を担ってくれた。マイクを片手に日程説明や諸注意をする兄の姿が瞼に焼きついてゐる。
私に取っては大学においても、正大寮(国文研の学生寮)においても、兄は真の良き後輩であり、学生時代から今日まで変ることなく示してくれたその真心こそが、現在の私を支へる大きな力であったと、兄が亡くなって初めて気づいた次第であった。
若き日に君が賜ひし真心は我を支へしものとこそ知れ
「早大積誠会」で一緒に学ぶ
私の方が学年が三つ上で早稲田大学で共に学んだのは1年であった。兄がどういふ経緯で学内の勉強会「早大積誠会」に加はったのか。4月早々のサークル勧誘の時、小林秀雄を読む読書会≠ニいふチラシを配ったのだが、それを見て積誠会に来てくれたのではなかっただらうか。30年ほど前までは、チラシを見た新入生が部室に訪ねて来るのは普通のことだった。他の積誠会のOBに尋ねたら、学内で5月頃開かれた「國武忠彦先生の小林秀雄″u演会」を聴講したことからではなかったかと言ってゐた。
いづれにせよ、ものごとを深く考へようとする心の姿勢(感性)が備はってゐたからで、それで小林秀雄%ヌ書会に惹かれたといふことだらう。勉強会では先輩達が感想を述べ合って、少々熱を帯びた場合であっても、兄はそれらにじっと耳を傾け、やがて該当箇所に目を落して黙読するといった感じであった。そして正鵠を得た言葉を発した。
その後「早大積誠会」を引き継ぎ、また正大寮に3年間入寮して関東地区の学生リーダーとして他大学の学生とも多くの交はりを結ぶことになった。
寮生活は楽しくもあり、また私生活無き共同生活の辛い面もあり、ご苦労もあったと思ふが、兄が居た頃の正大寮は活気にあふれ最も充実してゐたと遙か九州の地から頼もしく思ってゐた。
神奈川県の高校に奉職後、直向きな誠実なお人柄が認められたらしく、風の便りに、異業種交流が始まって「銀行」に出向したとか、夜間定時制高校に転勤したとか、進学校から県教委に移ったとか等々を耳にしてゐた。2年前に若くして教頭になったと聞いて、兄の人柄なら当然と思ったが、いよいよ一層多忙な日々が始まるのかなとも思った。立場上、無理をすることもあったのだらうか。それが兄の急逝の遠因となったのだらうか。残念でならない。
二つの文章に兄を偲ぶ
先日、兄の正大寮時代のことをお聞きするべく、熊本在住の吉村浩之兄(千葉工大卒)を訪ねた。その折に入手した「早大2年生の時の小合宿での感想文」と、平成22年3月号の『国民同胞」に寄稿された「道徳教育≠ノ命を吹き込むもの」と題した教師としての兄の文章の一部を次に掲げて、改めて御霊前に哀悼と感謝の意を捧げたいと思ふ。
〈大学2年生の時の感想文〉
(前略)聖徳太子の御釈の中に『我が子の稱は自他を別たず、唯善にあり』とあるのに対し、黒上正一老先生が太子のみ心を偲んで書かれた「眞實の信を行ふ道は唯肉親父子の間にのみ止まるべきではない。自他を別たず親子の情を以て教へあひ、又まもりあふべきを宣ふのである」といふ御言葉が心に残りました。
僕はこの「自他を別たず親子の情を以て教へあひ、又まもりあふべき」といふ黒上先生の御言葉に、太子の非常に豊かなそして温かい御心を感じます。親子の情とは、親が子を、子が親を、本当に自然にいつくしむ情であると思ひます。「自他を別たず親子の情を以て」といふのは、他人にもこの本当にいつくしむ情をもつといふことでせう。
これはとても難しいことだと思ひましたが、長内俊平先生から、本当に自分の親を思つてゐれば、他の人も、自分の親と同じやうに思ふやうになるといふお言葉をお聞きして、自分の心を省みずにはゐられませんでした。そして「眞實の信を行ふ道」とは、かうしたお互いの心を知り、信頼し合ひ、いつくしみ合ふ親子の情のうちにこそ教へあひまもりあふことができるのだと思ひました。(後略)=i昭和60年度冬季合宿感想文集)
かうした若き日の文章を読むと、真剣にものごとを考へようとする兄の学生生活が彷彿と浮んでくるやうだ。学生時代に「親子の情」に心を止めた兄が、いま職場で倒れ、そのまま逝ったと思へば悲しみは限りない。
〈『国民同胞』に載った主張〉
教育
いかならむ時にあふとも人はみな誠の道をふめとをしへよ
明治天皇が明治39年にお詠みになった御製である。教育の要諦は、人の心の陶冶にあることを教へていただくお歌である。生徒の心の姿勢を正すには、ありきたりの注意ではだめであり、教師の全人格の奥底から発する真剣な言葉が必要なのである。そのためには、教師自身が己が身を顧みて「誠の道」を踏む努力を日々重ねなければならないのだと、自戒してゐる。(中略)
道徳とは、「人のふみ行うべき正しい道筋」である以上、その教育に命を吹き込むものは教師一人一人の生き方に根ざした具体的な取り組みであるはずだ。(中略)
「自分の心を見つめ、感動を正し く表現する言葉を選び、歌の姿に 整へて友達に伝へていく」これこ そ国語科の授業の中で実践できる 道徳教育ではないだらうか。国民 文化研究会の合宿教室で学んでき た「短歌創作」と「創作短歌の相 互批評」をこれから国語教育に生 かすべく努力と工夫を重ねていき たい。=i『国民同胞』第581号)
堂々たる教育論だと思ふ。この時兄は足掛け20年目を迎へてゐた。日々のお仕事ぶりが察せられる提言だと思ふ。
兄の真心に応へたい
右の二つの文章を読むと時空を超えて、まさに若き日に書を読み、諸先生、先輩方から導いていただいた心の学問が、その後の兄の教師としての仕事の場に見事に直結してゐる。立派な人生だったと思ふ。
社会人になってからは、私は福岡で家業のスチール製建具製造の会社経営を引き継いだので、お互ひ別々の道を歩むことになったが、今の自分も兄の魂に支へられて生きてゐことをはっきりと知らされて、そこには「永久に続く日本の命」が感じられるのである。
兄の逝去は悲しいことであるけれども、今はそれを乗り越えて自らの日々の務めに力を尽したいと思ふ。それが兄の真心に応へる途だと思ってゐる。それを思ふと寂しい気持ちはやや薄らぐのである。
ご葬儀後に山口秀範先輩の
日の本の教への道を正さむと力尽くして職に仆(たふ)れつ
といふ追悼歌を拝見したが、兄の教壇での誇りあるお姿を想起されて、励ましの力を頂いたやうに思はれる。
大日方君、有難う。
〇
若き日ゆ君が賜ひし真心はこの行く先も我を守らん 合掌
(日章工業(株)代表取締役社長)
福岡市 藤新成信
三十年(みそとせ)前早稲田の杜(もり)に会ひまつりし君が笑顔を思ひ出しけり
小林秀雄吉田松陰と週毎に輪読をせし楽しき日々よ
糸島市 廣木 寧
あなさびしきみ逝きけりと思ふだにゑまひふるまひつと思はれて
春日市 古川広治
こころをこめて語りふるまふみすがたの浮びくるかな先輩(とも)を思へば
小田原市 岩越豊雄
まなこ澄みし君に会ふ日のもう無きと思へば常なきこのうつし世は
札幌市 大町憲朗
生徒らに慕はれましけむ我が友の思はぬ訃報に悲しみとまらず
横浜市 山内健生
うつつにも語り来るやに思はるる遺影見上ぐる夕べかなしも
斎場に「吾妹」と「お子」と納まりしパネルのありて我が胸痛し
清瀬市 今林賢郁
着任の挨拶(ことば)を述べしその直後(あと)に友倒れしと云ふただに痛まし
いかばかり無念ならむと思ひつつ君のみ姿偲びて止まず
厳しさのいやます道をわれら行くみ霊よ永遠(とは)に守り給へや
府中市 磯貝保博
合宿に共に学びし友あまた呼び寄せたまふ通夜の悲しき
小金井市 佐野宜志(のぶゆき)
奥様やご子息残して先立たれしみ心偲べば胸のつまり来
川越市 奥冨修一
なきがらの額をさする奥様のやさしきしぐさに胸あつくなる
酒々井町 内海勝彦
奥様とみ子を遺してみまかりし友の無念を偲びてやまず
世田谷区 小柳志乃夫
起きえざることの起れる心地していまだまことと思ひえざるも
あひなれし君と再びうつし世にまみええずとは信じがたしも
茅ヶ崎市 北濱 道
祭壇のかたへに並ぶ幾冊にこれまでの君の日々偲ばるる(小林秀雄全集と『本居宣長』)
柏市 澤部壽孫
若き日に国文研の合宿に共に学びしみ姿うつつに
日の本の行く末常に忘れずにつとめ給ひしますらをの君
福岡市 山口秀範
黙々と指揮班長(合宿教室)の務め受け昼夜分たず励みし君よ
遺すべき言葉も妻子(めこ)に伝へずて息絶えし君の無念やいかに
青森市 長内俊平
教師として職に殉ぜりと言ひつべしわが若き友大日方君よ
しかすがにおくさまのこと思ほへばたた掌を合はすほかにすべぞなきかも
熊本県 折田豊生
言の葉のさやけく目見(ま み)の涼やかにましましき君のみおも思はゆ
いつの日も折目正しく振る舞ひてありしみ姿かへらずやはや
お題「本」
お題は「本(ほん)」ですが、「ぼん」、「ぽん」、「もと」等のやうに読んでもよく、「本」の文字が詠み込まれてゐれば差し支へありません。
さらに、本を表す内容であれば、「本」の文字がない場合でも差し支へありません。
詠進要領
1、詠進歌は、お題を詠み込んだ自作の短歌で一人一首とし、未発表のものに限ります。
2、書式は、半紙(習字用の半紙)を横長に用ひ、右半分にお題と短歌、左半分に郵便番号、住所、電話番号、氏名(本名、ふりがなつき)、生年月日、性別及び職業(なるべく具体的に)を縦書きで書いてください。
無職の場合は、「無職」と書いてください(以前に職業に就いたことがある場合には、なるべく元の職業を書いてください)。なほ、主婦の場合は、単に「主婦」と書いても差し支へありません。
3、用紙は、半紙とし、記載事項は全て毛筆で自書してください。
注意事項(抄)
次の場合には、詠進歌は失格となります。
4、詠進歌が既に発表された短歌と同一又は著しく類似した短歌である場合
5、詠進歌を歌会始の行はれる以前に、新聞、雑誌その他の出版物、年賀状等により発表した場合
詠進の期間
9月30日までとし、郵送の場合は、消印が9月30日までのものを有効とします。
郵送のあて先
「〒100-8111 宮内庁」とし、封筒に「詠進歌」と書き添へてください。
詠進歌は、小さく折って封入して差し支へありません。
お問ひ合せ
疑問がある場合には、直接、宮内庁式部職あてに、郵便番号、住所、氏名を書き、返信用切手をはった封筒を添へて、9月20日までに問ひ合せてください。
(参照・宮内庁ホームページ)
お題 本
○○○○○○○○○○○○ ○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○ ○○○○○○○○○
(山 折 り)
〒住 所
電話番号 ふりがな
氏 名
生年月日
性 別
職 業
嘘報を放置して32年
朝日新聞は立派な「共同正犯」である
そして、「新たな嘘報」が始まった
嘘言を吐く人間はゐる。嘘言がウソとばれて恥を掻くの当人だが、もしそれによって実害が発生すれば、それはもう犯罪である。その嘘言にお墨付きを与へウソの拡散を放置した者は立派な「共同正犯」である。
〇
下関市に住む吉田清治なる人物は、日本統治下の済州島で嫌がる娘たちを力づく連行したとする自らの体験を集会で語った。その翌日の朝日新聞は、この話を四段抜きの大見出しで報じた。それは32年前の昭和57年(1982)9月2日の紙面であった。吉田某は、この翌年、さらなる「告白」本を出版した。
朝日の「ひと」欄に、「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田清治さん」といふキャプションで吉田某が登場したのは、「告白」本が出た四ヶ月後の昭和58年11月10日であった。6年後の平成元年8月には韓国で翻訳刊行されたが、地元の済州新聞の記者や郷土史家が古老に慰安婦強制連行について取材調査したところ、吉田証言が創作であったことが判明した。秦郁彦千葉大教授も平成4年、現地調査を実施して、吉田証言は嘘言であったと結論づけ、「詐話師」なる言葉を使ってゐた (wiLL九月号等参照)。
ところが、朝日は、今年8月5日に至るまで、嘘言を放置し補強の嘘報記事を書き、それらが国内や韓国に止まらず、世界に拡散して「日本たたき」の拠りどころとされても黙ってゐた。しかし、吉田証言を「虚偽と判断し、記事を取り消します」とした5日の紙面は、焦点を「女性の人権」にすり替へたもので、「朝日による新たな嘘報」の始まりだった。
左記の産経、古森記者の論説が正鵠を射てゐると思はれるので、同紙の了解のもとに転載する。
(編集部)
「あめりかノート」 古森義久
朝日虚報 日本糾弾の発信役
米国での慰安婦問題に関する動きを長年、報じてきた立場からみると、朝日新聞の虚報が日本の名誉を不当におとしめた罪に計り知れない重大さを感じる。
日本の慰安婦問題を米国内で初めて非難し始めたのは1992年に創設された「慰安婦問題ワシントン連合」という組織だった。ちょうど朝日新聞が「日本の軍(官憲)が朝鮮人女性を強制連行した」と本格的に報じ出した時期である。
少数の在米韓国系活動家によるこの組織は首都の議事堂や教会、大学で展示をして、「日本軍により組織的に強制連行され、性の奴隷にされた約20万の女性」の悲劇と宣伝した。
当時、取材にあたった私が同組織の人たちにその主張の根拠を問うと、「日本側の当事者の証言や資料と新聞報道」という答えだった。
その後、この問題での米国内での日本糾弾には中国系の「世界抗日戦争史実維護連合会」という強力な組織が加わって、陰の主役となり、活動は雪だるまのように大きくなった。その一つの頂点が2007年7月の連邦議会下院での日本非難決議の採択だった。
このプロセスでの日本攻撃の矢は一貫して「軍による女性の組織的な強制連行」に絞られた。決議が「日本帝国陸軍による若い女性の性的奴隷への強制」と明記したのがその総括だった。
同決議を主唱したマイク・ホンダ議員は審議の過程で第二次大戦後の日本でも占領米軍が日本側に売春施設を開かせたという報道に対し、「日本軍は政策として女性たちを拉致し、セックスを強制したが、米軍は強制連行とはまったくことなる」と強調した。
同決議案を審議する公聴会の議長を務めたエニ・ファレオマバエンガ議員は「米国も人権侵害を犯してきたが、日本のように軍の政策として強制的に若い女性たちを性の奴隷にしたことはない」と断言していた。
要するに米国からみての悪の核心は「日本軍による女性の組織的な強制連行」に尽きていた。その主張の土台は明らかにすべて日本から発信された「証言」「資料」「報道」だった。その発信役が朝日新聞だった。
だがいまや朝日自身がその「証言」「資料」「報道」のすべてが虚構だったというのだから事態は深刻である。とくに慰安婦狩りをしたとするデマの吉田清治証言は米国の議員らが審議で最大の参考記録とした議会調査局報告書の基礎となったのだから、決議自体が日本にとって冤罪(えん ざい)だといえよう。
朝日新聞が30年以上も発し続けた慰安婦問題の虚報が米国や国際社会の日本糾弾を招いたと述べても過言ではない。「日本軍の強制」が事実でないとわかっていれば、こんな日本たたきはなかった。だが米国ではいまもその虚構に屋を重ねる慰安婦の像や碑が建てられているのだ。
しかし朝日新聞は公器としての責任をとろうとはしない。虚報や誤報の自認や取り消しをしながらもなお、論点をそらせて「慰安婦問題の本質 直視を」と逃げる態度はグロテスクである。被害者側としては「朝日問題の本質 直視を」と訴えたい。
(ワシントン駐在客員特派員)
産經新聞 平成26年8月17日付
平川祐弘著 『日本人に生まれて、まあよかった』
新潮新書 税別780円
この本を読んで、私も日本人に生れてよかったと思ったことはもちろんだが、それと同時に「日本人とは何か」、「日本人であることのすばらしさ」をもっと言葉にして発信することの大切さに気づかされたのである。
最初に著者は「日本の知識層や学生層に『日本人に生まれて、まあよかった』とは思わない、日本についてネガディヴな見方をする人がふえつつある」、「今のところふえているのはおおむね根なし草の日本人」である、と現代日本人に警鐘を鳴らす。
ここで著者のいふ「根なし草の日本人」とは、急速にグローバル化する国際社会において、日本の文化的・思想的バックボーンを身につけず、態度にしても右往左往し、相手の言動に調子を合はせるやうな人物を指す。今の日本において、このやうな人物が、政治家やジャーナリストに限らず、社会の各分野に目立つ。
明確な国家観も持ってゐない人も増えた。現在、日本は歴史・文化や領土に関して、中韓両国から執拗な「批判」を受けてゐる。これらの一方的な言ひ掛かりに対して、まともに真向から反論する政治家や識者はほとんど見受けられない。歴史を正しく勉強すれば、日本は、中国のような尊大な独裁国ではないし、まして韓国のような視野狭窄の事大主義国家と根本的に違ふことがはっきりする。日本は「五箇条の御誓文」を掲げ、公論を尊ぶ道義国家である。このことをもっと発信すべきである。
ここで思ひ起されるのは、昭和21年元旦の「新日本建設に関する詔書」である。昭和天皇は、詔書の劈頭に五箇条の御誓文を掲げられ、GHQの占領統治下にあっても決して日本人としての誇りを忘れてはならないと、戦争で疲弊した国民を奮ひ立たせて下さった。陛下は昭和52年の記者会見で、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓はれた。さうして、五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義といふものは決して輸入のものではないといふことを示す必要が大いにあったと思ひます」と述べられてゐる。
今の日本人に求められてゐることは、歴史や伝統を重んずる本来の日本人の生き方を取り戻し、昭和天皇のお心に倣って、言葉に出して内外に発信することである。何よりもその力を身につけることである。
著者は、そのための方策として「これからの道徳教育には明治天皇・昭和天皇の御製、(中略)初歩の漢文に示される徳義的な心得、百人一首、俳句和歌などを教えかつ生徒各自に作らせるがよい」と述べ、「いわれのない非難にたいしては外国語でも上手に反論できる、西洋一辺倒や中国一辺倒でない日本人エリートを養成したい」といふ。
まったくその通りだと思ふが、学校現場はまだまだその意識から遙かに遠いところにある。例へば「総合的学習の時間」に、「地球市民」とか、「グローバル化」とかといふ言葉が良く使はれてゐることを考へれば、「根なし草」状態から脱却しようとする意志も覚悟も感じられない。それどころか「地球市民」などと言ひながら、世界各地で生起してゐる宗教対立や国境紛争などの生々しい問題に関心を向けることもなく、自分達の小乗的な殻に閉ぢこもって、「淡い夢」を語つてゐるだけなのである。これでは真のリーダー育成にはほど遠い。
さう考へると、わが国文研こそは、その役割を先駆的に担ってきたのだと今更ながら思はされるのである。今年の合宿のテーマは「先人の詩と哲学≠ノ生きるあかしを見出そう!─言葉に学ぶ─」であった。これまで合宿では、「太子の御本」の輪読や「御製の拝誦」、「短歌の創作」などを通して、「日本人」としての自覚を促し、思想を錬磨してきた。
私は勉強不足で大したことは言へないが、実生活の中で「日本人に生れてきて、本当によかった」と思ふことを、自分の言葉で発信して行きたい。さう努めることが、「先人の詩と哲学=vの恢復につながる途だと思ふのである。
(熊本県立第二高校教諭 今村武人)
新潮新書 税別七百八十円
編集後記
自ら持ち上げ広めた慰安婦「強制連行」の吉田証言≠遂に朝日新聞は「虚偽」であったと認めた。現地記者による取材で「作り話」であったと判明した後も「真偽は確認できない」と逃げ、国連人権委報告や欧米議会対日決議の根拠とされても沈黙してゐた。今度は「女性の人権問題」といふ新たな嘘報を流し始めた。まさに「証拠より論」である。「南京」もさうだが、日本人の歴史に泥を塗り続けるのは「日本人ではない」からか!?。
(山内)