
第576号
執筆者 | 題名 |
澤部 壽孫 | 民主党政権では日本を守れない - 正しい国家観を持つ政治家を待望する - |
末次 祐司 | 随想 御聖運の隆昌をお祈りして |
本田 格 |
美化語は本当に敬語なのか(上) |
平成21年 慰霊祭厳修さる |
民主党政権が発足して、鳩山首相の初仕事は国連総会への出席と各国首脳との会談であったが、懸念された通り、実に憂慮される船出である。
一、温室効果ガス25%削減の国際公約は、日本経済を破綻させるもので実現不可能であり、国際的な信頼失墜に繋がる。耳障りの良いことを言って一時の歓心を買ふことは外交上最も慎まねばならないことであらう。
二、尖閣列島問題やチベットやウイグル侵略については何もふれずに、友愛の美名の基に表明された「東アジア共同体」構想は、中国を利するだけで日本にとって何の利益にもならない。米国のみならず、アジアの国々や豪州あるいはインドはこの提案をどう受け止めたのであらうか。
三、米国との対等外交を言ひながら、大統領に対し日米間の懸案事項および日本の負ってゐる責任については一切言明しなかった。
四、国連で、北朝鮮に拉致されてゐる人々の奪還を強く世界に訴へる絶好の機会をみすみす逃した。
五、ロシア大統領との会談で四島返還の基本的立場を述べなかった。
七年間の占領政策とそれを引き継いだ日教組による自虐史観教育の毒が日本中に浸透した結果、ある時期から政治家や官僚、経済人に国家観が失はれ、国を背負ってゐる自覚のない人物が目立つやうになった。
@昭和57年の教科書検定誤報事件に端を発して宮沢官房長官談話によって教科書検定基準に定められた近隣諸国条項A平成5年の従軍慰安婦関係調査結果発表の際の河野官房長官談話B平成7年の終戦50年に関する村山談話(日本を侵略国家であると断罪した)等々の後遺症がどれだけ大きいか、いふまでもなからう。
胡耀邦総書記の立場を守るために靖国神社参拝を止めた中曽根首相、友達のいやがることはしないなどと、中国の内政干渉に口をつぐんだ福田首相は、国家と国家の関係と私的な関係を混同した。
民主党政権には人権擁護法や夫婦別姓あるいは永住外国人参政権等、目の離せない法案が目白押しであり、国の根幹を破壊する危惧が大である。
この国難の時に遭遇して忘れられないのは、終戦を御決断になった、昭和天皇が、敗戦にうちひしがれた国民にお示しになった「昭和21年の年頭の詔書」である。その冒頭に掲げられた「五箇条の御誓文」は、明治天皇が維新当時の公家と諸侯にお示しになった明治政府の基本方針であり、全文は左記の通りである。(括弧内は現代語訳)
一 広ク会議ヲ輿シ万機公論ニ決スベシ(全てのことに関して、自分の私的利害を混じえず、公の議論をしていかう)
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ(上も下も心を一つにして政治を行っていかう)
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス(どんな地位についてゐる人も自分の職業に誇りを持ち、倦むことなく、皆が生き生きと目を輝かせて仕事ができるやうな政治をする)
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ皇道ニ基クベシ(古くからの悪しきしきたりは改め世界に通ずる普遍的な道理に基いた政治をしよう)
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ(知識を広く世界に求め、大いに日本を発展させよう)
昭和天皇は、昭和52年8月23日の記者会見で、詔勅の一番の目的は、神格とかさういふことは次の問題であり、この五箇条の御誓文を国民に示して再認識させることであった旨をお述べになってゐる。
昭和天皇は日本の進むべき道をはっきりとお示しになった。しかし、政界、経済界、教育界の指導者はこのお言葉に真摯に耳を傾けることをしなかった。ここに、今日の日本の悲劇があると思はれてならない。
天皇を心の拠り所として仰いで来た日本の国柄を守り、日本の領土、領海、国民等、国家の基盤を毅然として守る政治家の出現が切に望まれる。
(本会副理事長 数へ 69 歳)
はじめに
大多数の国民の大きな関心事であった総選挙も終り、政権交代の風潮の下に、民主党中心の新政権が誕生しやうとしてゐる。時代は大きなうねりと共に、転換しつつある事を実感します。日本の古き良き歴史、伝統に背を向けた新政権の発足はまことに寒心に堪へません。国運衰退の危機感を持たざるを得ず、まことに憂慮すべき事態と思ひます。
高市黒人の歌
今を去るおよそ1300年ほど前の万葉の歌人、高市黒人の歌に、
楽浪の国の御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも
といふ歌があります。万葉学者、犬養孝氏は、その著『万葉の人々』といふ書の中で、次のやうな解説をなされてゐます。
「これはあの壬申の乱(西暦672年)の後、少なくとも20年位経ってからの、近江の荒れたる京を偲んだ回想の歌なんです。『楽浪』というのは地名、大津の辺の総名です。『 うらさびて』 という のは、霊魂の遊離した状態をいうんです。だから国が栄えるというのは、国の神霊がいるということ です。ところがその国の神霊がどこかにすうっと遊離してしまって、つまり虚脱の状態になってしまっている 。そうした荒涼としているこの壬申の乱後の京をみるとたまらない。
『楽浪の国の御神』って、つまり現実にはたゞ荒れた姿があるだけです。それを黒人は何と理解したでしょう。楽浪の国土を支配する神が、もうどこかへすうっと行ってしまって、そして荒れているというんです。 それは目に見えない現象の背後をつかんでいる人です。これは黒人だけの世界です。誰にでも通じる世界ではない。黒人の主観がみつめ、つかんでみせた世界といえます。国土の神がどこかへ遊離してしまったので荒れている、というふうにつかむつかみ方というのは、本当に目に 見えない現象の背後、そこに自分の心をしみ通らせていって、はじめてできるのです」(傍点筆者)
万葉人、高市黒人の霊覚(霊的感覚)は素晴らしいと思ひます。唯物思想の現代文明に汚染された現代人は、とっくにこの霊覚を喪失してしまひました。しかしながら僅かにせよ、現代文明の行詰りによる窒息感の打開、そして衰退疲弊してゆく自分達の村や町の復興、活性化に、産土神の存在が欠かせないことに気が付いてまゐりました。郷土のお宮を中心とした行事や祭りが盛んに伝統の復活と共に、開催されるやうになりました。参加してゐる人々の活き活きとした躍動が肌身に伝はってまゐります。まさに「郷土の栄光は国津神の栄え」と共にあるといふ実感が湧いてまゐります。
国の大事は戎と祀にあり
幕末の勤王の志士、平野国臣の歌集の中の言葉に、「国の大事は、戎と祀にあり、大いに祭祀を興すべし」といふ語があります。
「戎」とは戦争のことであり、軍備です。「祀」とは祭祀のことであります。天神地祇、祖国の為に尊い生命を捧げた英霊、これらの神々を祀ることです。国家の政事の根幹を衝いた言葉です。戎(軍備)と祀(祭祀)は、国家護持の日本精神涵養の要となるものです。特に護国の英霊を祀る靖国神社の祭祀は、国家にとって最重要な祭典であり、国民を代表して時の総理大臣は当然正式参拝すべきものと思ひます。まさに国の政治の原点であると思ひます。
明治天皇御製
神祇 (明治43年)
わが国は神のすゑなり神祭る昔の手振りわするなよゆめ
とこしへに国まもります天地の神の祭りをおろそかにすな
謹んで右の御製を拝誦しまつり、祭祀の大切なことを肝に銘じたいと思ひます。
現実の日本は、自衛隊が存在するとは云へ、正規の軍隊を保有しない、無防備とも思へる国家です。また国民は一旦緩急あれば義勇公に報じる殉国の精神を忘失してしまひました。真の独立国家とは申せない現状です。皇国護持の為、一刻も早く軍隊を保持し、国防に徹せねばならないと思ひます。祖先より受け継いだ武の精神の復活を望んで止みません。
人、実に神を守る
「神、人を守るに非ず、人、実に神を守る」。此の言葉は、明治維新の元勲、副島種臣(蒼海)伯の有名な言葉です。一見一般常識と逆の表現に思へますが、その真意は実際に神秘的体験をなし、神霊の実在を身を以て体得した種臣自身の痛切な言葉です。私達は日々目に見えぬ神の恩頼を蒙り、生かされてゐます。神をないがしろにしてはなりません。祖国の神々は厳然として存在し、国土をそしてそこに住む国民をお守りしてゐます。この「信」のもと、日夜神々の恩恵を忘るゝことなく、此の言葉を胸に、誠心誠意、神々を大事にお守りせねばならぬと思ひます。
止むに止まれぬ誠の心
私達一人一人はまことに微力な存在です。それを自覚しながらも、「至誠天に通ず」といふ言葉を信じ、止むに止まれぬ心を以て、直面する日本の危局に立ち向はねばならないと云ふ思ひがします。
かつて、奈良の薬師寺の管長をなされた、高田好胤師は、その著『不東の人・玄奘三蔵を語る』といふ書の中で、仏典(雑宝蔵経)の中の次の感動的な寓話を引用紹介なされてゐます。
「ヒマラヤ山中の中腹に、太い竹がたくさんおいしげっている大きな森がありました。その森にはたくさんの獣や鳥がみんなで仲よく暮らしていました。ある激しい風の日でした。風のためにすれあった竹の摩擦がもとで火が出ました。折からの強い風のため、みるみるうちに火は四方八方に燃えひろがり、たちまち大変な山火事になりました。あまりに俄かな事でありましたので、獣達はたゞ慌てふためくばかりでした。
この時、一羽の鸚鵡が急に飛び立ちました。そして山の麓の池まで飛んで行きました。その池で体を水に濡らして、またもとの道を飛び帰り、燃えている山火事の上から一心に羽を振って水の滴をたらしました。そしてまた山の麓の池に飛んでゆき、濡らした体で水を運んでは、羽を振って山火事の上から滴を落としました。それを何十回、何百回と繰返し続けました。息は切れ、目は血走って、疲れ果てますが、鸚鵡はそれをやめようとはしませんでした。
この様子をごらんになられて仏さまが、鸚鵡にやさしく『お前さんの羽で運んできたぐらいの水で、この山火事の火を消せると思うのかね』とおたずねになりました。鸚鵡は『 消えるか消えないかは私には分りません。けれどもこれをしなければ仲間達は、みんな焼け死んでしまいます。何もし ないで仲間を見殺しにすることなどとてもできません。何とかして助けてあげねばなりません。私にできる事はこれしかありません。また私達仲間を仲良く住ま わせてくれた森への、私のできる精一杯の恩返しはこれしかありません。愚かな事と思われるかもしれませんが、どうかこれを続けさせて下さい』と、仏さまの前を飛び立って、池に向かって山の 麓へ飛んでゆきました。
その姿と鸚鵡の言葉に仏さまは深く深く、大きくうなずかれました。そして不思議な力をあらわされました。するとどうでしょうか、黒い雲がもくもくとあらわれてき て、雨を降らし始めました。それが大雨になりました。さしもの山火事も忽ちのうちに消されました」(傍点筆者)
これは一つの寓話かもしれません。しかしそこには重大な意味が秘せられてゐます。ひたすら同胞を思ひ、同胞の為に事の成否を考へず、己が身に持てる誠を出し尽くす事がまことに尊いと思ひます。この同胞感こそ国運の隆盛をもたらす基と思はずにはをられません。
むすび
今年は 天皇陛下御即位 20 年、また 天皇皇后両陛下の御成婚 50 年のまことに目出度い慶賀すべき年に当ります。国民こぞりて奉祝し奉り、ますますの御皇室の御安泰と皇国の弥栄をお祈りしたいと思ひます。御聖運の一層の隆昌を祈念して已みません。
平成 21 年 9 月 10 日記
(熊本市在住・本会参与 元公立高校教師 数へ 86 歳)
敬語に加へられた「美化語」
「美化語」といふ言葉は、まだそんなには知られてゐないだらう。だが、この「美化語」なる語が最近少しづつ広まってきた。小型の国語辞書にはまだ見られないやうだが『広辞苑』や『大辞林』といった大型辞書の最新版には載ってゐる。「美化語」の語としての意味は、「ものごとを美化して述べる」語といふことだ。初めて聞く人はそんな言葉があるのかといふ感想だけで終ってしまふかもしれない。どうといふことのない人畜無害の言葉のやうに思はれるかもしれない。しかし、多少おほげさな言ひ方になるが、もしこの言葉が日本語の敬語の体系をこはすものだとしたら、そんなに安閑としてはゐられないだらう。
文化審議会国語分科会が「敬語の指針」を答申したのは平成19年2月のことである。そこでは従来の三種類の敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧語)に、新たに美化語と丁重語の2種類を加へられ計5 種類になってゐた。このことを覚えてゐる方もゐるだらう。ずいぶん数多くなったと感じられなかっただらうか。
次のやうな区分である。
1 尊敬
2 謙譲語 T
3 謙譲語 U( 丁重語)
4 丁寧語
5 美化語
答申からしばらく経つが、今までどのやうな反響があったのか。寡聞にして詳しくは知らないのだが、最近本屋に行って、新しく出た敬語関係の本を何冊か手に取ってみたら、みなこの答申をふまへたものだった。美化語が思ってゐた以上に浸透してきてゐるとの印象を強く持った。これからもっと広まりこそすれ衰へることはないに違ひない。
学校教育にも既に影響してゐるやうである。美化語について、今までどれほどの議論がなされたのか。もう議論の余地はないのか。実際は美化語といふ言葉自体を知らない人も多いのである。
「美化語」登場の時代思潮
「美化語」といふ語の登場は、今からほぼ半世紀前の昭和30年代にさかのぼる。ある研究者の論文に使はれたのが始りらしい。なぜこの語が生れたのだらうか。その背景について、あれこれと調べるうちに何となく見えてきたことがある。
それは、終戦後の社会の、新しい方向性を探る動きの一つに関連してゐる。これまでの日本を身分の上下構造のはっきりしてゐた階級社会であったとして、これからの新しい民主主義社会では民主性にふさはしい言葉が必要である、古い言葉は改めなければ日本の改革はできないといった論調と無関係ではないといふことである。
そこでは敬語の使用基準を上下関係におくことは否定されるべきであるとされ、それに代はる新しい概念として平等、親疎、横といふことが持ち出される。その他に水平、左右などといふ言ひ方もされてゐる。いづれにせよ、人は対等であるといふ観念が強く打ち出されるのである。
現在まで連綿として続くかうした考へ方の背景に、文化審議会国語文科会の前身に当たる国語審議会が、第一期(敬語部会の部会長は金田一京助)の昭和27年に、当時の文部大臣宛てに建議した「これからの敬語」の基本方針があることを見なければならない。その冒頭に、敬語が「旧時代に発達したままで、必要以上に煩雑な点があった」が、「その行きすぎをいましめ、誤用を正し、できるだけ平明・簡素にありたい」とした上で、次のやうに書かれてゐた。
「これまでの敬語は、主として上下関係に立って発達してきたが、これからの敬語は、各人の基本的な人格を尊重する相互尊敬の上に立たねばならない」
そして具体的に、「お」の付けすぎや、不当に高い尊敬語や不当に低い謙遜語をいましめたり、対話の基調を「です・ます」体とすることなど、さまざまな提言が行はれたのだった。この提言に沿って、それ以後の敬語の変遷があり、人々の言語生活にも大きな影響を与へたと言はれてゐる。
アメリカ教育使節団の「勧告」
このやうな建議が、なぜ出されたのだらうか。先づ、敗戦後GHQの要請に基づいて昭和21年(1946) 3月上旬に来日した第一次アメリカ教育使節団の報告書も見なければならない(この報告書は来日から一ヶ月も経たない同月末日に提出されてゐる。それにしても、何とわづかな期間に出された報告だらうか)。この報告書の中で、民主主義的な教育制度は、個人の尊厳と価値との承認の上に基礎をおくとして、教育改革のさまざまな勧告・提言が行はれたのだった。勧告とはいへ、それは占領軍の命令のやうに受け取られ、それに応じて教育基本法はもちろん、六三制、男女共学、PTAなど、「現在の学校教育に関する制度上、方法上、内容上のほとんど何もかもが、この報告書によって新しくこの国に採用された」(村井実『アメリカ教育使節団報告書』解説 1979年)ことを改めて見る必要がある。
「国語の改革」についても、報告書の中に一章が設けられ、いづれ漢字を全廃し、ローマ字が採用されるべきだとしてゐたのである。この提案だけはさすがに実施されることはなかったが、以後、国語改革の波は大きなうねりとなって、それまでのものが洗ひざらひ俎上に上げられ、漢字の字体や仮名遣ひなど、国語を「改革」する機運が一気に高まったことは周知のとほりである。その年の11月には「現代かなづかい」と「当用漢字表」(1850字)が決定(内閣告示)され、以後、「教育漢字」「当用漢字字体表」「当用漢字音訓表」と続く。当然のごとく「敬語」についても見直しがなされる。否定すべき旧時代を反映するものの一つに敬語が数へられ、「これからの敬語」の建議につながったのである。
「美化語」とは何なのか
かうして建議から約10年後の昭和30年代、新時代の敬語にふさはしいものとして「美化語」といふ語が新たに考へ出されて登場することになった。
「美化語」が主張され支持されてきた動きの背景には、右のやうな戦後の伝統軽視の流れと個人尊重の発想があることを見なければならない。一方、国語改革の動きに対する批判がやうやく表面に出てくるのも、昭和30年近くになってからである。田恆存の名著『私の國語教室』(現在は文春文庫)が刊行されたのは昭和 35 年のことであった。
また大野晋氏(当時学習院大学教授)は『日本語の年輪』(昭和41年)の中で、政府の方針を「十分な調査もなく進められ」「学問的な用意が不足していた」と断定してゐる。鈴木孝夫氏(当時慶応大学教授)は『ことばと文化』(昭和48年)の中で、先にあげた「これからの敬語」について、「日本語の言語的事実の正しい観察に基いてなされたというより、占領軍の意を受けて、先走った国語の民主化を意図的にはかったふしが多分に見られるので、必ずしもすべて信用がおけるものとは言えない」と書いてゐる。
さて、「美化語」とはそもそも何なのか。「話題のものごとの表現をとおして、話手が自分のことばづかいの品位への配慮をあらわす語」(宮地裕氏)といふことだが、具体的にどんな語をさすのだらうか。今回の文化審議会国語分科会答申であげてゐる該当語の例は、わづかに「お酒」「お料理」の二語にすぎない。特に誰を立てて使ふといふものではなく、「ものごとを、美化して述べている」といふ説明が続く。
「お」や「ご」など接頭語がつくものは、みな美化語とみなしてよいかといふとさうではない。「お導き」「お名前」等は尊敬語に、(立てるべき人への)「お手紙」は謙譲語になるといふ。動作の主体や動作に関する人物が考へられて、それぞれ区別されることになる。このことだけでも何か煩雑でわかりにくい印象があるから、混乱する人がゐても不思議ではない。
なぜ敬語にする必要があるのか
それにしても美化して述べるだけなのに、なぜこれをあへて敬語として数へるのだらうか。その理由について、「先生はお酒を召し上がりますか」といふやうな時、「酒」といふよりも「お酒」といった方がふさはしい。「配慮して述べる」から敬語として位置づけるのだといふ。さうすると、配慮があればその表現は敬語になりうるといふことになる。しかしそのやうな解釈までして「美化語」を、なぜ新たな敬語としなければならないのか(従来の三種類でも多いくらゐだといふのに)。美化語を語として認めても、多くの人はそれが敬語である理由をほとんど理解できないのではないかと思ふ。
「当用漢字」とは当面の需要に応へる制限漢字の謂であり、将来の廃止を視野に入れてゐた。それが現実に合はず廃止され、昭和56年に「常用漢字」に変更された。仮名遣ひについても、昭和61年に「現代仮名遣い」の改定が行はれた。戦後すぐの「国語改革」は不十分ながら見直しや検討がなされてきたが、さうした中で敬語に関してだけは「これからの敬語」の基本方針(昭和27年)の延長上にあって手つかずに取り残されてゐる。
(北海道札幌西陵高校教諭 数へ年 60 歳)
日本学生協会、精神科学研究所並びに国民文化研究会に連なる物故師友の御霊をお祀りする恒例の慰霊祭が 9月21日、東京・飯田橋の東京大神宮に於いて、御遺族をはじめ会員、合宿教室参加の社会人・学生ら 58 名が参列して、しめやかに執り行はれた。本年は新たに植木九州男命、山田輝彦命の二柱が合祀された。祭儀では今夏の厚木合宿教室の終了が奉告され、一同は「神洲不滅」「進めこのみち」を奉唱して一層の研鑽をお誓ひ申し上げた。左に献詠歌の一部を掲げる。
会 友 |
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東京都 伊澤甲子麿 | |
一すぢに忠義の道を貫きて大日本を守りつづけむ | |
御遺族 |
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松江市 青砥誠一 | |
雨多き夏過ぎ去りて虫の音の聞ゆる慰霊祭の時になりけり |
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山田輝彦先生 | 府中市 青山直幸 |
柔和なる笑みの中にも凛とせし厳しき御顔を思ひ出しぬ |
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小田原市 石綿範子 |
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昭和19年7月16日、最後の横須賀出航 |
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再びは帰る事なき母港にて碇上げ給ふみこころやいかに |
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岩手県紫波町 橋本のぶ |
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憂きことの重なる日々の心重く赤とんぼ亡兄と追ひし日なつかし |
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青森市 長内俊平 |
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なつかしきなきみ友らのみ名呼べばこたへますがに姿さへもみゆ |
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東京都 小田村四郎 |
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うつしゑに懐しき面影偲びつつみたまのふゆをただ祈るかな |
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東京都 小田村初男 |
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皇国に逆波寄せし憂ふべきいまこそ学ばむ師のみ教へを |
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久留米市 鹿毛義之 |
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日の本の国の基なる憲法を改正したき思ひ切なり |
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佐賀市 高橋和彦 |
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しきしまのやまとの歌を守りつつ逝きたる友を偲ぶけふの日 |
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岐阜市 中島吾郎 |
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朝夕に言葉をかけて十五年神となりし 娘の笑顔に向ふ |
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父の八回忌 | さいたま市 宮脇新太郎 |
ふるさとの土蔵の錠の重き開け父の日記をしばし読みけり |
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町田市 安元百合子 |
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日の本の道正さむと盡されし先達の跡継ぎてゆかまし |
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府中市 磯貝保博 |
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御霊らの残せし書物を読み返し行くべき道のしるべとぞせむ |
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東京都 打越孝明 |
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黒上の大人の遺徳をこの年も集ひて語らん同志らと共に |
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山田輝彦先生 | 宇部市 内田巌彦 |
歌つくることの楽しさ説き給ふ師の御姿は今もうつつに |
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山根 清兄 | 千葉県印旛郡 内海勝彦 |
君逝きて四年過ぐれどいまさらに君がみ跡を偲びやまずも |
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川崎市 小縣一也 | |
この年も憂きことのみの多けれど御代安らけくとただ祈るなり |
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横浜市 香川亮二 |
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この年も参じえずしてくやしけれをろがみまつる今日のこの日に |
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さいたま市 上村和男 |
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年毎に師の君友らみまかりて寂しさ増しぬ今日のみ祭 |
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御即位二十年奉祝行事 | 横浜市 椛島有三 |
国民の誠をささげ天皇を壽ぎまつらむ政権代れど |
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都城市 小柳左門 |
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世のさまはかはりゆくともかはらざるまことの心つぎてゆきなむ |
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植木九州男先生 | 柏市 澤部壽孫 |
この我を雲仙合宿に誘ひましし五十年前の師の君偲ばゆ |
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宇治市 柴田義治 |
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先人のつみかさね来し道統をただひたすらに護りすすまん |
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熊本市 末次祐司 |
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師の君の尊き教へに導かれ共に学びし日々ぞ懐かし |
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小田村寅二郎先生 | 由利本荘市 須田清文 |
師の君を偲びまつればあまたなるふかきみなさけ思ひ出さるる |
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下関市 寶邊正久 |
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継ぎゆかむみ祖のことばひびきあふわれらの合宿守りませ神 |
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佐世保市 朝永清之 |
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みたまらのおもひうけつぎわかきらにつたへゆくこそわがつとめなる |
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東京都 坂東一男 |
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靖国の英霊に祈らず理屈云ふ総理に神の加護はなかりし |
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筑紫野市 松浦良雄 |
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年を経て教へを受けし人々の御恩はさらに深くなりゆく |
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山田輝彦先生 | 熊本県菊池郡 三城利惠 |
あたたかき御眼差しに笑みたたへ女子学生を導きたまひぬ |
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学 生 | |
國學院大二年 相澤 守 |
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映画「文化の戦士」を拝見して |
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先輩は菅平にて同志らと眼を輝かせ講義聴き給ふ |
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埼玉大一年 山中利郎 |
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秋風にさるすべりの木そよぎ立つ射し来る月の光をうけて |
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編集後記
鳩山首相はニューヨークでの日中会談で「村山談話」踏襲を表明、「東アジア共同体」構築を述べたといふ。相手は尖閣諸島に止まらず沖ノ鳥島をも狙ふ核武装国だ。靖国神社参拝さへなし得ずして見す見す彼の術中に填るのか。寒心に堪へない。
恒例の慰霊祭が営まれた。次々に読み上げられる御祭神の御名に、道統の重みと連なる者の重き務めを改めて感じた。 (山内)