
第569号
執筆者 | 題名 |
飯島隆史 | 「金融経済政策」にも正しい国家観が不可欠だ |
小野吉宣 | 臣としての勤めと慎みの念 |
寶邊正久 | 明治維新 此の方百四十年 -『真情』(平成二十年十二月発行)所載- |
松尾敬宇 | さわらび抄(36) |
2兆円の定額給付金等を盛り込んだ平成20年度第2次補正予算は1月末、与党多数の衆院で再議決され成立した。
平成21年度予算も同様の経緯になると思はれるが、第2次補正予算関連法案の参議院審議が財務相辞任問題でさらに遅れ、定額給付金の年度内支給が危ぶまれる情勢と報じられてゐる(2月末日現在)。
お国から「お金」を貰ふといっても、その財源は税金である。これを使って買ひ物をすれば、個人消費が伸び景気が上向くとの考へであらうが、誠に浅薄な政治的発想ではなからうか。さらに閣僚は受け取るのか、受け取らないのか、などと末節の議論も展開された。
これが残念ながら現下わが国の「金融経済政策」の1面である。もっと毅然とした「国家観」に則った政策を打ち出して貰いたいと強く願ってゐる。「愛国心」と「正しい国家観」が必要なことは、内政、外交、安全保障ばかりではない。経済、金融、為替も然りである。
誤解を恐れずに言へば、軍事力をバックにしない政治、外交があり得ないのと同様に、貨幣の強さも軍事力に比例する。なぜ「米ドル」が世界の「基軸通貨」となり得てゐるのか、確かに「ユーロ」が力をつけてはゐるが、自国通貨を「世界通貨」たらしめてゐるのは米国だけである。
米軍が世界最強の軍隊であることと無関係ではないはずで、この点について日本ではマスコミでも大学教育でも一切ふれない。 一番直近の「景気後退現象」は平成9年(1997)から翌年にかけての、いはゆる「金融不安」であった。平成九年には北海道拓殖銀行・山一證券が破綻し、翌年には長期信用銀行・日本債券信用銀行が破綻。
さらに我が国の経済成長率もマイナス0.8%に転じた。この時の主原因は何であったか。勿論、消費税が5%に引き上げられたために消費が急速に落ち込み景気が悪くなった面はあった。しかし、それだけではなかった。橋本龍太郎内閣のこの時のキーワードは「グローバルスタンダード」であり、「金融ビッグバン」といふ言葉もあった。
この折のグローバルスタンダードの典型は銀行のBIS基準のクリアであった。それが世界の金融ビッグバンに対応する大手邦銀の正しい態度であるとされてゐた。 具体的には国際決済銀行(BIS)基準といはれるもので、銀行の貸出金総額を分母とし自己資本を分子とする比率が、8%以上を達成してゐない銀行を国際金融市場から締め出さうとする基準であった。
この八%といふ数字は、ちょうど日本の自己資本比率を少し上回る数字で、欧米の銀行はこれをクリアしてゐた。 これが平成9年の景気後退と重って、銀行は分子である利益、つまり自己資本の充実を図ることは難しく、あの強引な「貸し渋り」、はたまた「貸し剥し」といふ現象を生み出した。
分子の拡大は無理なので、分母の縮小に努めたのであった。金融危機の到来である。振り返れば、これはジャパンバッシング以外の何ものでもなく、「グローバルスタンダード」は、すなはち「アメリカンスタンダード」だったのである。 今回の急激な「景気後退」に際して、銀行の自己資本比率を云々してゐる国があるだらうか。米国の代表的銀行であるシティバンクが危ぶまれてゐるわけだから、BIS基準どころではなくなってゐる。
つまり「世界的なスタンダード」は、その基準の中心国の都合によって「変化する基準」だったのである。 それでは、激動して止まない世界(グローバル)において、基準(スタンダード)とすべきは何であらうか。それは自分たちの国の基準を保持し続けることしかあり得ない。自国の文化と伝統、そして自存自立の意志を堅持する国が真の独立国家であり、それが世界に通用する国のあり方なのである。好不況に左右されない確乎とした「国家」を目指したいものと強く念じてゐる。
(新明電材(株)常務取締役 数へ57歳)
寺尾博之海軍少尉の遺書
昭和20年8月19日、福岡市郊外の油山で寺尾博之海軍少尉(東京帝大農学部在学中に学徒出陣)は、敗戦の責任を武人である自分自身に負はれて「魂魄トコシヘニ 祖国ニ留メテ玉體ヲ守護シ奉ラム」との遺書を残して自決された。
毎夏、営まれるその慰霊祭に学生時代から参列してきたが、「天皇陛下に直属する思想精神」のままに人生を全うされた寺尾少尉の生き方に憧憬の念を抱いてきた。その思ひは今日に至るも変らない。 少尉の思想心情を残された遺書の中から偲ばう。
「…恐レ多クモ 陛下ノ御上ニ夷狄カ司令官ノ存在ヲ許シ 御一人ノ統治シ給フヘキ大和島根ヲ 彼カ軍政ニ委ヌルニ至ル 関知シマツラスト雖モ此処ニ至ル 罪當ニ云フヘカラス」
少尉は、同志の田所広泰氏や小田村寅二郎先生方と共に、大東亜戦争勃発以前から為政者の戦争指導方針の根本的欠陥を批判してきた。そのことは「彼カ軍政(米国の軍政)ニ委ヌルニ至ル関知シマツラスト雖モ」と記されてゐる箇所からも察せられる。
憂へてゐた通り、国家最悪の破局を迎へることとなった。即ちポツダム宣言の受諾によって「畏れ多くも 陛下の御上に外国の司令官が立つのを許して仕舞ふ事態」が招来したのだ。そして、その「罪」をご自身に負はれたのであった。「一死以テ臣カ罪ヲ謝シ奉リ併セテ帝国軍人タルノ栄誉ヲ保タントス」とも遺書には認められてゐる。
さて、今日の私達には「帝国軍人タルノ栄誉」が何となく、遠い抽象的な概念となってはゐないだらうか。何故か。それは私達日本人一人一人が「日本国民たるの栄誉」を如何に保つべきかを、己に突きつけて来なかったからではないのか。
アイデンティティ・クライシスが叫ばれる現在であるが、「陛下の御上に外国の司令官の立つのを許した」事実を直視せずして、「保守すべきもの」が何であるかを内心から息吹かせることは出来まい。戦後の日本では、リーダー達の中でさへ、「日本の元首よりアメリカの元首の方が何となく格好良い」といった口振りを無意識ながらも匂はす者が少なからずゐたし、今もゐる。被占領(主権喪失)といふ国家的悲劇から目をふさいだ「負け癖の付いた犬」のやうに思はれてならない。
思想の点検と吟味の必要性
@陛下の「祈り」への無理解
今上陛下は、皇太子殿下の時代の昭和61年5月26日、皇室と国民の関係について次のやうに記者会見で述べてをられる。
「天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場には なく、伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場に立っています。 このことは、疫病の流 行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の写経の精神や、また、『朕、民の 父母と為りて徳覆ふこと能はず。甚だ自ら痛む』という後奈良天皇の写経の奥書などによっても 表されていると思います」(『新天皇家の自画像』文芸春秋)
今上陛下は「国民と苦楽を共にする」このことを、身近には昭和天皇をお手本として実践してをられる。
陛下のお見舞ひを忝うした被災地の国民が、最大の政治的権力を持つ総理大臣の視察とは次元の違ふ大きな精神的励ましを受けてゐることは当事者(例へば旧山古志村の長島忠美元村長、『祖国と青年』10月号)が語るところである。
政治家の一時的職務的な視察とは違って、元旦早朝の四方拝・歳旦祭に始って大晦日の大祓まで、常に「国安かれ民安かれ」と祈念してをられる陛下のお見舞ひに、被災者は無限の「真心」を感じてゐるからではなからうか。
ところが、保守政界のリーダーとも目される石原慎太郎都知事は自著『かくあれ祖国』(光文社、平成6年版)の中で次のやうに述べてゐた。
「だから何十年に一度という昨年の冷害による大飢饉の時には、天皇は災害地の御見舞いや 、皇室外交などよりも、白装束で何日間かおこもりして断食もし、国民のため収穫のために祈 祷して頂きたいと、私などは思います。/きらびやかな皇室外交よりも、国民に代わって祈祷の 行を終えられた天皇が、ヒゲぼうぼうでやつれてしまったお姿を現わされることで、国民は理屈 を超えた敬意と尊崇を抱くでしょうし、政治の及ばぬ信頼がよせられると思います」(百十三頁)
私の心を曇らせ軽く読み過せない二つの主張がここにはある。
@天皇は災害地に赴かれ、そこで苦しむ国民を見舞ふ必要がない
A「きらびやかな皇室外交」は不要であるの二点である。
「皇室外交」といふ言ひ方自体がマスコミ用語であり、ここで使はれてゐる「きらびやか」といふ形容詞も予断を与へるもので感心しない。外交は政府の責任で行ふものだから、陛下の外国ご訪問は慎重であらねばならないが、ご訪問国との親善友好に計り知れないものを生み出してゐることは、国内各地への行幸と同様であらう。
この「放言」に近い記述を正面から批判し指弾した人は出てゐるのだらうか。私は、毎週学生達と吉田松陰先生の文章を輪読してゐるが、次の一節を思ひ出した。
「太平に鼓腹したる士の常言に、『今の士は昔の士の様に勇猛なることは出来ぬなり、是も時運 なり』
杯云ふ者あり。余甚其の言を悪む。己が職を自ら廃し、是を時運・天命に附せば、不忠不 孝、不仁不義、皆時運・天命になるなり。何ぞ是を悪まざることを得んや」
(『講孟箚記』講談社学術文庫)
松陰先生はその人物が思想を表現した言葉を「甚悪む」と云はれる。人間を悪めとは云はれない。発想の根源を示してゐる「言葉」に真向ひ断じて悪むべき思想は許すわけには行かない、と「初一念」を大事にしてをられるのである。
A教育勅語の最も重い箇所
また、石原氏は同じ著書の中で「徳育」の大切さに触れて次のやうに言ふ。
「結局最後はそうしたコミュニティを含めた教育に行き着くと思う。そしていまではかつて日本人 が大事にしていた徳目の教育がまったくなされていない。戦前の『教育勅語』を持ち出してきて も、いまでは誰もついてこないし、天皇が徳目の教育に乗り出したらまたいろいろな問題も起っ てくるだろう」(前掲書206頁)
戦前に於て「教育勅語」を徳目の教育のみに終始したから硬直化したのではないのか。教育勅語の一番大切なところは「朕爾臣民と倶に拳々服膺(いつも心中にささげもって忘れないこと)して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ」といふ、国民と共に高みを目指さうとされた明治天皇のご姿勢にある。この点を見落しては教育勅語は分らない。
われわれ平成の民は今日でも陛下が国民と「倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを」願はれてゐることが御製を通して拝することができる。このことをきちんと受け止めるならば、右のやうな一節が如何に空虚なものであるか分るだらう。
私は昭和48年春、高校教諭になった。以来、毎朝神前に御製と教育勅語を拝誦して教壇に立ってきた。拝誦する度に「爾臣民と倶に」の所に来ると、明治天皇が不肖小野吉宣と「倶に」と呼びかけて下さってゐるやうに感じられて胸内が温くなる。
その耳に聞えてくる「御声」が本然の喜びとなり、そこから私の継続する志と不動の信念は、生れてくるのである。
明治維新を切り開いた根源の力
嘉永6年10月2日早朝、江戸から長崎への途次、京にて御所を拝した松陰先生は、次の漢詩を作ってをられる。
「拝鳳闕」
山河襟帯自然の城、
東来日として帝京を憶はざるなし。
今朝盥嗽して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず。
鳳闕寂寥にして今古に非ず、空しく山河のみありて変更なし。
聞くならく今上聖明の徳、
天を敬ひ民を憐れむ至誠より発し給ふ。 (以下略)
「鳳闕」とは孝明天皇が政をなされてゐる京都御所のことである。孝明天皇は「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異国の船」とお詠みになってゐた。
アメリカのペリーが浦賀に来航して以来、天皇が「毎朝寅の刻(午前4時頃)より玉体を斎戒し、敵国摂伏、国民の安穏を御祈願なされ」てゐることを聞き知った24歳の吉田松陰はまだ夜が明け初めぬ払暁、御所を拝したのである。
私の心の目には、玉砂利の上に正座し前額を地にぴたりと付けたままの動かぬ松陰の姿が見えるやうだ。拝礼は如何ほど長続いたことだらう。松陰先生は何故「悲泣して行くこと能はず」なのか? 御所の衰微に全身が震へ湧き来る悲しみの涙が止まらなかったのである。
「悲泣して行くこと能はず」として流され玉砂利に染み込んだ涙こそ、江戸から明治維新へと時代を切り拓いた根源の力だったのだ。決して賢しらなる千々の言説からは、その根源的な力は生れはしなかったのである。 (福岡県立直方高校教諭 数へ62歳)
明治維新といふ大事業が成ったといはれるのは、慶応3年徳川幕府の大政奉還、朝廷の王政復古、翌明治元年(1868)の五箇条御誓文の発布、更に明治四年の廃藩置県に至るまでをいふ。この間、孝明天皇崩御(慶応2年10月2日)、明治天皇御践祚(慶応3年1月)がある。今年平成20年(2008)は維新から数へて140年に当る。私なりに振り返ってみたい。
◇
140年といへば長いやうで短くもある。人間一個人にしてみれば生理的肉体的に限界を超えてゐる。しかしその半分の70年といへばこの頃は人間寿命のうちだ。しかも今70を過ぎた人にとって70年前は支那事変、それから大東亜戦争、敗戦、戦後となって民族共通の思ひ出、苦しみ、生きざまがあって記憶は離れるものではあるまい。
私にとって70年前は昭和13年(1938)、中学五年、17才である。支那事変二年目、戦雲に包まれてゆく実感は薄かったが、意識の底にあったものは、幼児の頃から世間、家庭、学校にあった明治立国に対する無条件の崇敬ではなかったらうか。
ひ弱な子供だったが小学上級のころ、先生に引率されて壇之浦の国道から、関門海峡を東上する聯合艦隊を歓送したことがある。旗艦日向の甲板に軍装して整列した水兵に向って歓呼して旗を振ったのだ。後から後から続く軍艦が海を分ける波が美しかった。幼な心に海防日本の威厳が心に焼きついたものだ。
学校唱歌では「廣瀬中佐」があった。「轟く砲音飛び来る弾丸荒浪洗ふデッキの上に闇を貫く中佐の叫び杉野は何処杉野は居ずや」学芸会の寸劇はクラス総掛りでやった。部下を連れて帰らうと敵弾轟く中、闇の船中を走り廻りその名を連呼して遂に身は一片の肉塊を留めて散華した。その優しさ強さ、ロシアの少女にも慕はれた日本士官。さういふ廣瀬中佐の印象は先生の話から聞いたのだらう。
小学校の先生はさういふ話をしてくれたのだ。乃木大将についてもその旅順攻略の心痛苦心、「愧ヅ我何ノ顔アツテカ父老ニ看エン。凱旋今日何人カ還ル」凱旋の事、殉死の事を思って郷里の古老たちは折にふれて語ったものだ。先生も親達も、軍国思想を宣伝したのではない。自分が見たまま感じたままを子供に語ったのだ。我々はそのやうにして国の歴史を習ったのである。
明治維新は子供(小学生)にとってそれから更に遡る70年前のこと、何を教はったのか全く覚えてゐないが、郷土の先覚者吉田松陰の名前だけがそれに結びついてゐる。禁を犯して米艦に乗り込み渡航を企てたこと、安政の大獄で刑死したこと、松下村塾の門弟が明治の元勲になったこと、それ位のことではあるがそれはかりそめの事ではない。歴史の肝所、愛惜の情に結びつく所を習ってゐたのだ。
◇
さて今の子供たちはどうなのだらう。明治維新、明治時代、昭和の大戦、戦後のことをどう教へられてゐるのだらう。
教へられてゐないこと、だから子供たちの知らないことを並べてみよう。印度・支那を席捲してきた外国軍艦の来攻と幕府の衰弱の時、孝明天皇がどんなに御心痛され御努力されたか。明治天皇が軍人勅諭を出されたこと。教育勅語を出されたこと。
大日本帝国憲法制定の苦心と、その出来上ったものは世界が驚く偉業であったこと。明治天皇御生涯に93,000余首の御歌を遺されたこと、その一首さへも教へられてゐないこと。更に大正昭和期の日本を中心としてみた支那動乱と、コミンテルンと、アメリカの動向。大東亜戦争終結の御詔勅のこと。
さういふ日本の歩みのキイポイントに触れないで、明治維新によって日本は「近代国家」への歩みを進んだと、教科書は書く。その目標は「自由、民主」だと書く。然し自らの力で近代国家への道を切り拓いた時の日本は、自分の言葉で目標を書いてゐるのだ。明治元年に明治天皇が神前に奏上せられた「五箇条の御誓文」にはかうある。
「旧来ノ陋習ヲ破リ」「知識ヲ世界ニ求メ」「上下心ヲ一ニシテ」「万機公論ニ決シ」国民全てが「各其ノ志ヲ遂」げますやうに、倦まざる溌剌たる人生を送りますやうにと、天皇が天地神明にお誓ひなされた。
そして国民を代表して有栖川宮が読まれた奉答文には、「今日ノ急務、永世ノ基礎、此ノ他ニ出ヅベカラザル、臣等謹ミテ叡旨ヲ奉戴シ…」の言葉がある。自由民主の中味は早くから定まってゐるのだ。政権朝廷に帰し、維新成らんとする明治元年3月、討幕軍が江戸城に入る一ヶ月前のことである。
◇
明治維新と明治時代は何であったのか。子供心に元気を与へるやうな文章が教科書にないから、ひとつの文章をここに掲げる。岡倉天心の『日本の目覚め』の文章である。岡倉天心は、大正2年52才で亡くなった美術学校創始者、日本美術の価値を世界に訴へた先覚者である。『東洋の理想』『日本の目覚め』等を英語で書いてロンドン、ニューヨークで出版した。日露戦争の前後のことだ。
「日本が東洋の一国民として近代 生活の恐ろしい急務に応じようと努力して直面した仕事は更に 一層困難なものであつた。我々が昏睡から目覚める瞬間まで、現今支那及び印度に存すると 同一の昏睡状態が我々の上にも存してゐた。…亜米利加船の江戸湾出現は大きな驚駭であつ た。
…これまでわが国民的自覚の中に潜んでゐた歴史的精神は、挙国一致燃ゆるが如き表現 となつて迸り出づるため只この時あるを待つてゐたのである。…そして我が国民の歴史上始め て、先祖伝来の我が国土を護るため如何なる方策を採るべきかに就いて、貴賤の別なく、提言 せよといふ懇請をうけた。我々は一体となつた、そして〈亜細亜の夜〉は〈朝日の光〉に永久に消 えたのである。」
天心の文章にもあるやうに、幕末の困難打開の先頭に立たれたのは、明治天皇の御父陛下孝明天皇であった。今では多くの歴史家が承認するところであるが、『近世日本国民史』百巻の著者徳富蘇峰は早くから一見解を表明してゐる。曰く「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない。又当時の志士でもない。
畏くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。」「然るに維新の歴史を研究する人々は、元勲とか何とか言つて、臣下の働きを彼此申すが、此の運動の中心とならせられた、孝明天皇に感謝し奉ることのないのを、甚だ遺憾に思ふのである。」
◇
私は140年前を記念して、孝明天皇の御製二首と、孝明天皇の「御述懐一帖」の一節(文久2年(1862)自らお書きになった近臣への御書簡)と、明治天皇の「明治維新の宸翰」の一節(明治元年(1868)3月14日)の一節を謹記したい。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異国の船(安政元年)
すましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民(年月不祥)
御述懐一帖より「若し然らずして唯に因循姑息旧套に従つて改めず、海内疲弊の極、つひに戎虜の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊に屈し、殷鑑遠からず印度の覆轍を踏まば、朕実に何を以てか先皇在天の神霊に謝せんや。
若し幕府10年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師をなさずんば、朕実に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤に則とり公卿百官と天下の牧伯(諸侯)を帥ひて親征せんとす。卿等其れ斯の意を体して朕に報ぜんことを計れ。」
明治維新の宸翰より「今般朝政一新の時にあたり、天下億兆、一人も其の処を得ざる時は皆朕が罪なれば、今日の事、朕自ら身骨を労し心志を苦しめて艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤を履み、治績を勤めてこそ、始て天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。」
次に、63年前、昭和20年(1945)の大東亜戦争終結の詔勅の一節を謹記する。
「…惟フニ今後帝國ノ受クベキ苦難 ハ固ヨリ尋常ナラズ。爾臣民ノ衷 情モ朕善ク之ヲ知ル。然 レドモ朕 ハ、時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪 ヘ忍ビ難キヲ忍ビ以テ萬世ノ為ニ 太平ヲ開カムト 欲ス。 朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ。 …宜シク挙國一家、子孫相伝ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信ジ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、総力ヲ将 来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ、誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ後レザラ ムコトヲ期スベシ。爾臣民其レ克ク朕ガ意ヲ體セヨ。」
◇
140年前の半分の70年前が昭和13年で私が17才の時だと最初に書いた。その頃から今に至る年月は、私の思ひ出の詰った私の人生である。それは即ち、わが国の戦争と敗戦と戦後の人生に他ならない。それをめぐって友があり、家庭があり生活があった。昭和天皇、今上天皇は、この時代の折々の自然と民を和歌にお詠みになられてゐる。
憚りながら思ふことは、天皇陛下こそ、戦死した民と、いま在る国民と四季に輝く自然と生物を見そなはしつつ、御位に在らせ給ふ。私が謹記した昭和天皇終戦の御詔勅の一節は、まさに現在只今の国民へのお諭しである。
その大御心は、140年前、明治維新の時の天皇のお言葉に直結してゐる。情勢の如何に関らず、神意を畏まれて国の先頭に立ち、仁慈の大御心で民をしろしめし給ふ。維新の真只中で三条実美が遺した言葉がある。
「ソレ天下ハ治ル者ト思フ可ラズ乱ルル者ト思フベシ、乱ルルニ随ヒシタガツテ治ム、此間ニ一起一仆彼我艱苦磨励遂ニ一治ニ帰ス」の「一治」の原理を「國體」に求め給ひ、自ら「國體ヲ護持シ得テ」と仰せられたのが終戦の大詔であった。140年前、王政復古による新日本開国の大方針は、今日の日本再建のお諭しに一貫してゐるのである。
(本会副会長 数へ88歳)
編注・赤間神宮神官青田国男氏主宰「真情会」機関紙『真情』第73号〈明治維新140年特集号〉
平成20年12月25日発行-所載、 文中の◇、フリガナ、太字は編集部で入れた。
益良雄のゆくてふ道をゆきにゆき安めまつらめ大御心
松尾敬宇は熊本出身の海軍軍人で、大東亜戦争勃発の翌年、昭和17年5月特殊潜行艇第二次特別攻撃隊が豪州シドニー湾を急襲した時の四隻の一つ松尾艇の艇長である。松尾大尉(戦死後中佐)は、敵の爆雷攻撃で損傷した艇を浮上させ、勇敢にも司令塔から身を乗り出し敵艦に体当たり攻撃をした後、部下と共に自決した正に益良雄であった。
この歌は出撃前の3月29日、軍の機密のため出撃のことは秘し、心中秘かに別れを告げようと家族を呉に呼んだ時に、父親に添削を頼みながら口吟した歌である。武人としての道を行き極めて天皇陛下の御心をお安め申し上げたいといふ強い意志が込められてゐる。この年の歌会始で発表された昭和天皇の御製は、次の通りである。
御題「連峯雲」
峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
国を覆ふ暗雲を暗示する雲の払拭をひたすらに祈られる御歌である。この天皇の御深憂をしっかりと受け止め、それを吹き払ふ風の一つとして勇往邁進しようとしたのである。前年ハワイを奇襲した第一次特別攻撃隊の海軍葬が四月に行はれ、新聞紙上に司令長官山本五十六の「益良夫のゆくとふ道をゆききはめわが若人らつひに帰らず」が掲載された。わが武人は皆同じ思ひであったのである。
この「ますらをの道」は古来からの伝統であるが、直截には奈良時代の天平文化を築かれた聖武天皇の御製を承継した表現である。天皇は辺境防備強化のために派遣した節度使に次の御製を賜った。
丈夫のゆくといふ道ぞおほろかに念ひて行くな丈夫の伴
重大な使命を担っていく丈夫たちになほざりな気持で行ってはならないと戒められたのである。この時代に、武人として仕へ奉る不朽の精神を大伴家持が、大伴氏の「言立て」として現したのが、「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」である。
日本人の戦ひは、大量の爆弾で物理的に敵を抹殺することではなかった。そこには常に大御心に副ひ奉らんとするひとつの道の実現が意識されてゐた。
(損保料率機構福岡事務所主査 鎹 信弘)
○「さわらび抄」は、皆さんの愛誦してゐる短歌を、連載でご紹介いただく欄です。皆さんのご投稿をお待ちしてをります。
新刊紹介
中西輝政+日本会議 編著
『日本人として知っておきたい皇室のこと』
PHP研究所税別 1500円
天皇陛下御即位20年を奉祝して刊行された本書は、「はじめに」「発刊に寄せて」から「おわりに」に至るまで各界14名の方々の篤実な文章で構成されてゐる。いささか羅列的になるが管見を記してみたい。
「はじめに」は三好達日本会議会長によるものだが儀礼的な挨拶文ではない。その冒頭部で「…いささかでも報恩感謝の念を捧げたいと考えて…」云々と、各界の人達と語らって「天皇陛下御即位20年奉祝委員会」が設立されたことが記されてゐる。「報恩感謝の念」の六文字が私の目に焼きついた。奉祝、慶賀、お祝ひ等々の物言ひは他でも目にするが、報恩感謝の念こそが第一義であると思ふからである。
「はじめに」には「陛下と国民を結ぶ信頼と敬愛の紐帯」との副題が付けられてゐて、昭和天皇の終戦時のご苦衷、御召艦榛名後甲板と遙か海岸の村民を結ぶ「聖なる夜景」、今上陛下の被災地へのお見舞ひや慰霊の行幸に触れてゐる。「発刊に寄せて」の島村宜伸議員(奉祝議員連盟世話人代表)も、陛下と大学同期とのことで間近で拝した体験などを語る中で、本書刊行の意義が述べられてゐる。
「第一章 皇室と日本人」では、冒頭の「日本人にとっての天皇」と題する中西輝政教授の皇室論は歴史的な文明論な視点から皇室伝統の意義を縷々説いたもので、必読すべきものと強く強くく感じた。次の平沼赳夫議員の「福沢諭吉の『日本皇室論』-「自由民主主義の短所」「行政の限界」と「皇室の役割」」も、近代的法治国家なればこそ国家国民を統合する皇室の役割の重要性が説かれてゐる。
下村博文議員の「国民の安寧を祈る皇室の伝統-宮中の「新嘗祭」に参列させていただいて」では、内閣官房副長官として参列した新嘗祭を「あれだけの霊的なエネルギーを感じたのは初めて…」と振り返り「日本国の祭主」であるお立場に言及してる。
萩生田光一議員の「昭和天皇と『昭和の日』-皇室を身近に感じるまちづくりのモデル」では、「御陵の町・八王子」選出議員ならではのもので、八王子市・陵南公園での「昭和の日」制定記念行事(平成十九年。私も参加したが)を初め、いくつかの重い挿話が紹介されてゐる。
続く「象徴天皇考-『開かれた皇室』論の誤り」(大原康男教授)では聖的な響きを内包する象徴の本来的語意が、「五箇条の御誓文と明治天皇-近代国家の理念と構想」(阪本是丸教授)では復古即維新の日本的理念の意味合ひが、「日本は天皇の祈りに護られている」(松浦光修教授)では陛下の御本務の本質が、それぞれ専門的な研究を踏まへつつ簡潔に熱く説かれてゐる。
「第二章 今上天皇を仰ぐ」では、今上陛下についての具体的な記述であって、さらに心に迫るものがあった。紙数の関係でタイトルのみを列記する。
「今上陛下の『国難打開』の祈り-亀山上皇、孝明天皇、そして今上陛下の石清水行幸」(石清水八幡宮・田中恆清宮司)、「会津の復権と靖国神社-国家としての過ちや行き過ぎを冷静に是正される皇室」(日本国際青年文化協会・中條高会長)、「天皇皇后両陛下のご足跡-『被災地お見舞い』『慰霊の旅』『外国ご訪問』」(日本会議・椛島有三事務総長)、「皇室の伝統を受け継がれる天皇陛下-占領・戦後体制という逆境の中で」(日本会議・江崎道朗専任研究員)。
どの文を拝読しても、国祖を仰がれる涯なき大御心の下に今日の日本国家の統合が保たれてゐるとの感を改めて強くした。図らずも「陛下の御心を知る努力を…」との恩師夜久正雄先生のお言葉が甦ってきた。
「おわりに」(日本会議経済人同志会・宇都宮鐵彦会長)がまた体験的な内容で、賀陽宮殿下とのご交際、身延山久遠寺の「立正」勅額・横浜市中区妙香寺台の君が代寺の由来などが述べられてゐる。
(山内健生)
第54回全国学生青年合宿教室 厚木(神奈川県)にて開催!
長谷川 三千子先生
ペマ・ギャルポ先生
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先人はどう生きて来たのか我々はどう生きるべきなのか-
期日:8月20日(木)〜23日(日)
場所:厚木市立七沢自然ふれあいセンター
参加費:学生 20,000円 社会人 35,000円
昨夏 第53回合宿教室の記録集
『日本への回帰 第44集』刊行!
定価900円 送料210円
編集後記
最近ある会合で耳にした某評論家の「多忙な陛下ではあるが歴史や哲学にもっとご関心を…」云々のスピーチには驚愕した。本頁「新刊紹介」書籍の「第2章」で綴られてゐる「石清水行幸」「慰霊の旅」等々のほんの一端でも、もし認識してゐたとしたら…。今上陛下のお歌の一首も読んでゐないといふことなのだらうか。聞き間違ひかと一瞬わが耳を疑った。
(山内)