沿革と由来

大正15年(1929年)、第一高等学校(一高、東京大学教養学部の前身)に、同校教授・沼波武夫氏を中心として「瑞穂会」という文化団体が誕生した。
明治維新から60年、外来の抽象理論に走って自国の文化伝統を軽視する学風を憂えてのことであった。

この「瑞穂会」の会員で、沼波教授亡きあと同会で「聖徳太子の思想と人生観」について連続講演を行ったのが、若き篤学者黒上正一郎氏であった。
昭和4年には黒上氏を師と仰ぐ学内サークル「一高昭信会」・「東京高等師範信和会」が相次いで発足した。

今日まで版を重ねている黒上正一郎著『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の初版は、昭和5年「一高昭信会」による謄写印刷として刊行されたものである。

同会は東西の外来文化に広く学びながらも、聖徳太子の遺された文献と明治天皇の御製を研究の中心に据え、同信師友との友情を深めつつ研鑽を続けた。

この会に学んだ学生にとって、自国文化を軽視し、国家の運命と無縁な、当時の帝国大学法学部の学風は黙視しえないものであった。

そこに生まれた言論活動は、国会でも取り上げられ(小田村事件)、やがて昭和15年、全国的な学生組織「日本学生協会」の結成へとつながり、学風改革運動は新たな段階を見せるのである。

翌年には「精神科学研究所」を設立。支那事変から大東亜戦争への渦中で、統制経済の名のもとに計画経済(社会主義)へ移行させようとする官界学界の左傾勢力との論戦を重ねた。

また東条内閣による「戦争終結の目途なき戦争指導」の欠陥を敢然と指摘し、ために昭和18年いは同研究所は解散を命じられ、田所廣泰・小田村寅二郎両氏をはじめ幹部は一斉に検挙されるに至った。

敗戦後、戦陣に斃れ病に逝った友人たちを慰霊する営みの中から、新しい運動への気運が高まり、昭和31年に「国民文化研究会」が組織されて、祖国の歴史と伝統に基づいて次世代の国民を育成する活動を今日まで展開している。