第682号
執筆者 | 題名 |
理事長 今林 賢郁 |
自立意思ある国民にならうではないか - 「国民の覇気」こそが国を支へる - |
古賀 智 | 東京裁判によって日本人は〝幽霊〟になったのか - 三ヶ根の「殉国七士の墓」に詣でて思ふ - |
小柳 志乃夫 | 青山墓地案内 高崎正風―明治天皇にお仕へした人々(下)― |
久米 秀俊 | カンボジア王国の国歌と人々の生活 - 四年間のカンボジアでの生活を終へて - |
平成31年 歌会始の詠進要領 |
わが国が先の大戦に敗れて数ヶ月後の昭和20年12月の年の暮れ、NHKは海外からの引揚者を激励するために特別のラジオ番組を企画した。その中で童謡歌手、川田正子が歌った「里の秋」(作詞斎藤信夫、作曲海沼 實)は放送直後から大変な反響で問ひ合せが殺到したといふ。この曲は作曲家海沼實がNHKから番組で流す曲を依頼され、知人であった作詞家斎藤信夫と協議して作った歌である。
一 静かな静かな里の秋
お背戸に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てますいろりばた
二 明るい明るい星の空
鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べては思いだす
三 さよならさよなら椰子の島
お舟にゆられて帰られる
ああ父さんよご無事でと
今夜も母さんと祈ります
静かな里の秋、母と子が囲炉裏端で栗の実を煮て、夜鴨の鳴き声を聞きながら食べてゐると出征してゐる父の笑顔が思ひ出される。その父が帰ってくる、どうかご無事でと祈る母と子の情感がしみじみと伝はる忘れがたい歌である。
ところが、この歌の歌詞は斎藤が昭和16年に書いた「星月夜」を改変したものであった。「星月夜」は四番まであり、一、二番はそのまま「里の秋」に採られたが、三番「きれいなきれいな椰子の島 しっかり護って下さいと ああ父さんのご武運を 今夜も一人で祈ります」は「父さんの無事な帰国を祈ります」といふやうな歌詞に書き変へられ、四番「大きく大きくなったなら 兵隊さんだようれしいな ねえ母さんよ僕だって 必ずお国を護ります」は削除されて、「里の秋」となった。国の存亡を賭けた戦ひに子供たちが父の武運長久を祈り、「大きくなったら兵隊さん」になって国を護るのだといふ意志を示すことに疚(やま)しいことなどどこにもない。
それでは何故改変されたのか。海沼と斎藤の、先の大戦への悔悟がさうさせたのかも知れない。だが、ここはやはり連合国最高司令部(GHQ)の、戦意高揚につながるものは徹頭徹尾許さないといふ占領方針が敗戦数ヶ月にして早くも我が国の社会全体を覆ってゐたと考へるべきであらう。この萎縮した世相に更なる打撃を加へたのが翌年の昭和21年5月に開廷された東京裁判であり、この裁判で展開された歴史観は未だに国民の心を縛り続けてゐる。
同じやうな例はまだある。
唱歌「冬の夜」である。雪が激しく舞ふ冬の夜、子供たちが囲炉裏の側で、「衣(きぬ)縫ふ」母から「春の遊びの楽しさ」を聞き、「縄なふ」父は「過ぎしいくさの手柄を語る」。その話に子供たちは「ねむさ忘れて」「こぶしを握る」。この歌の初出が明治45年であることを考へると、「過ぎしいくさ」は日露戦争だらうか。ところが戦後の教科書や唱歌集からは「過ぎしいくさの手柄を語る」は「過ぎし昔の思い出語る」に変へられた。「いくさ」では戦後の大事な平和主義が脅かされ、「昔の思い出」に変へれば戦争はなくなるとでもいふのか。一体、我が国はいつになったらこのやうな長い眠りから目覚めるのだらう。
明治の日清日露の両戦役から先の大戦に至るまで我が国は祖国の独立を保全するために戦ったのである。国史に刻印された先人たちの苦闘の跡をひとつひとつ消し去り、自国の歴史を他人事のやうに語る中で、我々は自らの自立意思と自衛の気概、言はば国を支へる精神の心棒をも亡くしてしまったのではないか。
「北朝鮮の核ミサイル開発」や「尖閣領海への中国艦船の恒常的な侵犯」などに見られるやうに、幕末以上の危難が我が国に迫る今、長い間安住してきた他国任せの平和依存から一刻も早く抜け出さなければならない。自衛―自らの国は「自ら衛(まも)る」といふ国民の見識が問はれてゐるのだ。独立とは文字通り「独り立つ」ことである。さうであれば我々ひとりひとりが先づ、他に依存しない、自ら立つ、意思ある国民にならうではないか。自立した国民と自衛の気概に満ちた国民の覇気こそが国を支へる底力となるのだ。
愛知県の三ヶ根(さんがね)は三河湾国定公園の一部である。晴れれば山上からの眺めは実に素晴しい。眼下に広がる海は知多半島と渥美半島とに囲まれた三河湾である。その先には遠く伊勢湾の向うに伊勢・鳥羽・志摩の山並を望む事が出来る。
去る3月に私は4度目の三ヶ根訪問を果した。初めて訪ねたのは平成26年8月4日の事であった。その日は霧が深くて雨も降ってゐた。三ヶ根を訪ねたのは比島観音が祀られてゐる事を知ったからである。
比島観音
比島観音は彼の大戦におけるフィリピン方面での50万余の戦歿者の慰霊のために昭和47年4月に戦友及び遺族6千余名の浄財を以て建立されたものである。比島観音の御眼の3千粁(キロ)先には激戦地のフィリピンの島々がある。この比島及びその周辺における昭和十九年十月以降の戦闘は凄絶なものであって、神風特別攻撃隊がはじめて出撃したのはこの時であった。夥しい数の飛行機と艦艇とを失ひ、野山と海底には皇軍将兵がその屍をさらした。比島が悲島と言はれる所以である。
さて、雨の中を参拝すると、驚いたことに比島観音を取り囲むやうにして幾十といふ慰霊碑が建ち並んでゐた。戦友会或いは遺族会によって昭和40年代から平成初頭にかけて建立されたものである。それらの一つ一つを拝みながら、記帳ノートのあるものには記帳をして、歌などをも書き添へながら参拝を済ませたところ、その月の末になって名古屋市在住の榊原英子さんといふ御婦人から御葉書を頂戴した。
百八観音護持会
榊原さんは大阪の歩兵第108聯隊ゆかりの百八観音護持会の御方である。御父上は108聯隊に所属して終戦までを南支で戦った皇軍勇士である。108聯隊の戦友会が陣歿戦友の慰霊のために百八観音を三ヶ根に建立したのが昭和56年5月の事であるが、榊原さんは御父上の後を継いで20年近く、毎月18日の観音様の御縁日には早朝から参拝して他の参拝者の接待などをしながら百八観音を護り続けて来られた奇特な御方である。
この榊原さんに加へて、同じく名古屋市の川辺恵美子さんとみよし市の吉野由美さんとが護持会の中心になって活動されてゐる事は、全国的に戦友会の解散が続いて遺族会の活動も低調になってゐる中にあって、まことにありがたい事である。
さて、その榊原さんの御葉書には「古賀さんは百八聯隊の関係者の方でせうか」とあったので、「自分は直接の関係者ではないが、300万もの同胞が戦歿した大戦(おほいくさ)であって、当時の国民の30人に一人以上が死んでゐるのだから日本人はみなその遺族である。自分はさういふ気持ちで参拝した」といふ返事を書き送った。この事が縁で、その翌年の平成27年4月28日にも再び三ヶ根を訪ねる事になった。
「殉国七士の墓」への参拝
平成27年の4月29日の午前中に百八観音慰霊法要が終って、太山寺(たいさんじ)での昼食会の時になってはじめてその日の午後2時からその一粁ほど奥の「殉国七士の墓」において墓前祭が行はれる事を知ったのである。聞けば、「殉国七士の墓」は昭和35年に建立されて以来、昭和の天長節に当る4月29日に毎年、墓前祭が行はれてゐるとの事であった。まことに迂闊であった。不明を恥ぢながらも墓前祭に参列したのであった。
東京裁判の野蛮
殉国七士とはいはゆる東京裁判なるもので敵側の手によって死刑に処せられた我が国の指導者たちである。その七名は次の通りである。
東條英機元陸軍大将
松井石根元陸軍大将
土肥原賢二元陸軍大将
板垣征四郎元陸軍大将
武藤章元陸軍中将
木村兵太郎元陸軍大将
廣田弘毅元総理大臣
ドイツの戦争犯罪人を裁いたニュルンベルグ国際軍事裁判に倣って、日本の指導者であるとして118名を逮捕し、その内の28名を起訴して極東国際軍事裁判で裁いてこれらの7名を極刑に処したのである。
ドイツにおけるところの「平和に対する罪」及び「人道に対する罪」はヒトラーを中心とするナチス幹部による共同謀議の結果であらうが、日本に関してはこの事はあてはまらない。これを承知の上で国際法を無視して占領政策の一環として強行したものである。すなはち、裁判といふ司法の形を装ひながらも実は占領政策といふ行政であり、その実施にあたっては裁判所条例の制定といふ立法までをも同時に行ったのである。近代法における三権の独立、法の不遡及の原則、罪刑法定主義などは全く無視したのであって、中世以前の野蛮な復讐劇が20世紀の半ばに白昼堂々と再現されたのである。
この裁判と称するものの欺瞞性と違法性と復讐性とについては当の米英両国を含む世界各国の法律学者などの議論を巻き起して裁判直後から非難されてゐる。裁判当時においては、11人の判事の一人に加はったインドのカルカッタ大学総長のラダビノード・パール博士が25名(最終人数)の被告全員の無罪判決を下した。これは、同じ有色人種として日本に同情したり欧米に反対したからではない。パール博士はあくまでも真実を真実として認めて、法の真理を適用した結果として被告全員の無罪を確信したのであった。人種偏見に基く復讐心に燃えたウェッブ裁判長をはじめとする他の十人の判事どもとは大違ひである。
日本そのものを裁いた!
さて、主席検事と称するキーナンは「この裁判の原告は文明である。文明が日本を裁くのである」と述べた。なんといふ傲岸不遜な物言ひであらうか。起訴した28名は「平和に対する罪」及びその共同謀議並びに「人道に対する罪」を犯した個人としての被告であると言ひながら、実は日本そのものを裁くと言ふわけである。それも彼らの中世以前の野蛮な文明を以てである。したがって、被告席に座らされたのは一億国民全員であって、日本人全員に対して有罪判決を下して、その代表として七名を絞首台に送ったとも言へるのである。日本民族すべてが処刑されたのと実質的に同じ事なのである。国家として或いは民族としてこれほどまでの悔しかるべき辱めといふものが他にあるだらうか。そして、この謂れ無き最大限の侮辱を受けた事を現在の我々は正しく認識してゐるのであらうか。三ヶ根の「殉国七士の墓」に眠ってゐるのは処刑された七人だけではなくて、実は我々自身である事を認識する必要があるのではないだらうか。
実は、東京裁判開始の前年の昭和20年12月8日から新聞に掲載され始めた『太平洋戦争史』及びその翌日から放送が開始された『真相はかうだ』の占領軍司令部による謀略宣伝と、それを受けての新聞及び左翼の学者と文化人らによる日本否定の論説と、共産党などによる「戦争犯罪人追及人民大会」が全国各地で開かれた事などとによって軍人と政治家とを糾弾する思潮が作り出されて、日本がすべて悪かったのだと国民の多くが信じ込んでしまったのである。東京裁判はかうした精神的下地の中で行はれたのである。
その結果、日本人はみな東京・巣鴨の絞首台に吊るされてまるで〝幽霊〟にでもなったかの如くに、その後は国民としての足許は定まらず、占領中はアメリカに寄り縋り、占領が終ると親ソ反米となり、日中国交回復と聞くと中国に靡き、韓流ブームと言っては韓国をもてはやすといふやうに、実に節操の無い卑屈な民族になってしまって、そのいづれの国からも侮られてゐるのである。
「殉国七士の墓」建立の経緯
ところで、三ヶ根に「殉国七士の墓」が建立されるまでには関係者の身を顧みぬ献身的な働きがあった。 巣鴨で七名が処刑されたのは昭和23年12月23日の午前零時過ぎであった。その日を事前に察知した日本側の弁護人の中に三文字正平氏がをられた。ドイツの戦犯刑死者の遺骨が砕かれて飛行機から海に吹き飛ばされた事を聞いてゐた三文字氏は、マッカーサーが7名の遺骨を遺族に渡す意思の無い事を知った時に、日本に対しても同様に死者に鞭打つむごい仕打ちをするものと直感して、何としてでも遺骨の一部でもよいから奪ひ返さんとの義憤に駆られた。七名の遺体が横浜の久保山の火葬場で焼かれる事をつきとめたが、当時は横浜の火葬場までもが米軍に接収されてゐて、遺骨の奪取は命懸けの至難の技であった。そこで同じ久保山の興禅寺の住職の清水伊雄師に相談して、火葬場の場長の飛田美善氏の協力を得る事が出来た。
12月23日の午前7時頃に久保山に運び込まれて焼かれた7名の遺骨の一部づつを飛田場長が秘かに7箇の骨壺に納める事に一旦は成功したが、供へた線香の煙によって米兵に知られて奪ひ返されてしまった。米兵はそれを残骨捨場の深い穴に捨てたが、三文字氏と清水師と飛田場長とが警備が手薄になるクリスマスの深夜に秘かに残骨捨場に侵入して命懸けで骨壺一箇分の遺骨を取り戻したのである。
この7名の遺骨が混り合った骨壺は興禅寺に一旦納められた後に熱海・伊豆山の松井石根大将の興亜観音堂に秘かに納められたが、12年後の昭和35年8月16日に三ヶ根山上に「殉国七士の墓」が建立されて、墓前祭が神式で行はれたのである。この時に京都の八坂神社の松平静翁から和歌が寄せられた。
後の代に正しき歴史書かるべき
その日をまちてしづかにねむる
いかがであらうか。正しき歴史が書かるべきその日は来たのであらうか。今年は七士が処刑されてから70年目にあたるが、私にはその日はまだ訪れてゐないやうに思はれる。それは現在の日本人がいまだに〝幽霊〟のやうに思想的にふらふらした状態にあって、拠るべき所を見失ってゐるからである。三ヶ根山上の「殉国七士の墓」に眠る我々自身が目覚めることが何よりも肝要である。東京裁判で否定された真実の歴史を取り戻すために是非とも三ヶ根を訪ねて欲しい。
(元富士通(株))
高崎正風のこと
高崎正風(まさかぜ)は御歌所(おうたどころ)長として明治天皇にお仕へした。天保7年(1683)、薩摩藩士の家に生れ、明治天皇よりは16歳年上にあたる。父は薩摩藩の御家騒動の渦中にあって切腹、正風は士分を失って15歳にして大島に流される。亡父の影響もあって和歌に親しみ、これが遠島の日を慰めたやうである。遠島は間もなく解かれたが、士分に復したのは10年ほど後で、その後は幕末動乱の時代を京都や江戸に過すのだが、この間も香川景樹―八田知紀に連なる門に通って歌を学んだ。
明治八年に侍従番長となって拝謁した時、既に天皇は正風が歌をよくするのをご存じで、お側にあった鉢植の牡丹を詠むやう命ぜられたといふ。翌9年の奥羽御巡幸では供奉の人数が限られる中で、侍従番長ながら御歌掛を兼ね、民衆の献上歌を歌集「埋木廼花(うもれぎのはな)」に編集してゐる。
遠州灘の船の上で
正風が明治天皇と歌についてお話し申し上げたのは、明治10年7月のことである。西南戦争の勃発もあって半年ほどのご滞在となった京都からご還幸の途上、遠州灘をゆく船の上でのことであった。
この日の様子を明治天皇紀はかう記している。
「午後3時頃富嶽(ふがく)の雲表(うんぴよう)に聳ゆるを叡覧(えいらん)、御製三首を詠じたまふ。乃(すなは)ち鉛筆を以てこれを手冊(しゆさつ)(手帳)に記し、其の一葉を裂き」、正風の差し出す団扇に渡され、忌憚なく批評せよと仰った。正風は拝見を終へて、二首目が特に優れてをりますと申し上げる。なぜか、前後の二首のどこがよくないのだ、と問はれる。正風、よくないといふのではなく、二首目に比して劣ると考へます。では二首目のよいところを答へよ。正風曰く、京都ご滞在が長くなったので東京にお帰りになりたいお気持ちが切になられるのは自然なことと拝するが、この二首目の御製にはそのお心が率直に詠まれてゐて、そこが優れてゐると存じます、と申し上げた。話は歌道に進み、正風は古今集の序や香川景樹の説を引いて歌のよしあしを論ずる。天皇は「深く興ぜさせられ」、ご旧作を示して、この歌はかう添削されたのだが、原作とどちらがいいと思ふ、とお尋ねになる。正風は歌の優劣を一つ一つ批評する。その率直な感想がお気に召して、御製を示されること30数首に及んだ。
明治天皇紀は、船上で詠まれた御製で正風が優れてゐると申し上げた二首目は、「あづまへといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山」であらう、と推測してゐる。
御製拝見の三条件
この問答がきっかけとなって正風は御製拝見の掛(かかり)を命ぜられる。正風はご辞退するが、許されない。遂に正風は三条件、即ち①詠歌のために政をゆるがせにされぬこと、②現任の三条西季知は従来同様とされ、また、正風の評は率直を旨としたく、不遜の点は寛恕されたいこと、③正風は歌道に達せず一時的な拝命であること、の三つを提示するが、いづれもお聞き届けになった。かうしてその後の生涯を、天皇のお詠みになった御製の拝見に尽すことになる。
御製は封筒の裏などに書きつけられ、これを税所(さいしよ)敦子(京都出身、薩摩藩士未亡人で歌人。青山に墓所あり)らが清書し、正風の手元に回されたやうである。正風は天皇の膨大な数の御製を拝見し、写しを手元に留めて、評したものを封緘して天皇のお手元に返上したといふ。
正風の墓地
高崎正風も青山墓地に眠ってゐる。先月号で述べた元田永孚の頌徳碑の裏手のほど近い一角に高崎家の墓所があり、正面に正風の墓が立ってゐる。その裏面の墓誌の中に
「君、和歌を善くし夙(つと)に先帝の叡鍳(えいかん)を蒙り、御製有る毎に輙(すなは)ち之を閲するを命ぜられ、献替(けんたい)諱(い)まず。今上(大正天皇)及び(昭憲)皇太后も亦皆歌道を諮詢され、屢(しばしば)其邸を親臨さる。終身御歌所長を兼ぬ…」
(原白文。筆者読み下し)
とある。「献替」は諸橋大漢和辞典によれば「可を進め否をやめさせること、君主を補佐するにいふ」とあり「諱まず」とは「いみ憚(はばか)らぬ。直言して諫めること」とある。御製拝見について言ってゐるのだから、先の三条件にあった率直な評のことだらう。その率直さを明治天皇は嘉納されたのである。そして、大正天皇は皇太子として、昭憲皇太后は皇后として、時に正風の屋敷を訪ねて歌の相談をされたのだった。
長子元彦の戦死
この墓誌の最後には「大正元年2月18日薨ず、壽77。元の配(妻)山田氏は三男三女を生み、継室伊達氏は子無く、竝(なら)びて先に薨ず。長子元彦は日露之役に戦死し、孫正光、嗣ぐ」とある。
元彦は海軍軍人だった。元彦の墓誌によると、元彦は明治2年生れで、資性は孝貞忠実で学を好むとある。やさしい人柄が浮ぶが、若くして米国に渡りアナポリス海軍兵学校に入り卒業後帰国して明治28年に海軍少尉に任官、35年には英国皇帝戴冠式に列したとある。優秀な外国通の海軍士官だったのであらう。明治三十七年の日露戦争では軍艦春日の分隊長だったが志願して七月旅順攻撃の陸戦隊に入り、八月に敵弾に当って戦死した。日露戦争の軍人の歌をまとめた山桜集には、この元彦の歌も掲載されてゐる。その一部を引く。
「 海軍少佐 高崎元彦
父君の許より撫子の花おこしたるに「折りてやるこの一枝のなでしこに葉山の夏を思ひやらなむ」とよみ添へて送りたまひぬ、進軍のまぎはにて事わざ繁き折ながら |
嬉しくもしばし葉山にあそびけり恵みの花に思ひやりつつ
父君より「かへらじと誓ひて出でしますらをもなほ家人の夢に見えつつ」とよみて送りたまひければ返し |
馳せいでて向ふまぎはに大丈夫の心の駒や夢に見えけむ 」
父はその子と遊んだ葉山の夏を思って撫子の花を送る。出港する間際であったらうか、その子は、送られてきた花を手に、父との思ひ出に、そして父の胸中に思ひをはせる。父の夢には戦場にある子の姿が現れる。父の思ひに力を得て、陸戦重砲隊を志願したのだらうか。戦争の行方を決定づける、最大の難敵、旅順要塞を落とすために、陸に上がって奮戦、戦死したのだった。
青山墓地の正風の墓所の左手に元彦夫妻の墓がある。そのそばには、墓には珍しく砲弾が供へられてゐる。砲弾を置いた台にはその由来が刻まれてゐて、旅順包囲網の陸戦隊に向けて露国軍艦から発射された砲弾で、明治41年に海軍から元彦の霊前に供へるために寄贈されたことが記されてある。この台の下には青銅板の元彦の墓誌が貼られ、その末尾には正風の歌が刻まれてゐる。
身を捨てて國に盡せと常言ひし父の訓(をし)へをよく守りけり
(原文は万葉仮名)
明治天皇紀によると、元彦戦死の報をお聴きになった天皇・皇后より菓子一折が下賜され、弔慰をいただいた。正風はその思ひを和歌に託し、宮内大臣を経て陛下にお伝へした。その歌は、
大君のみをしへ草をしをりにてさきたちし子を何か歎かん
といふ。大君のみをしへ草とは教育勅語のことであらう。一旦緩急あれば義勇公に奉じた我が子であった。墓誌の「父の訓へ」は「大君のみをしへ草」と一つにつながるのである。因みに正風は晩年教育勅語の普及に力を尽くしてゐる。
元彦の葬儀には、元彦の七歳の幼子正光が喪主となって柩に従った。正風の歌がある。
藤衣(ふじごろも)着するは夢か学びやにかよ ふとしにもまだならぬ児に
泣く人をいぶかしげにもうちまもり随ひ行くか父のひつぎに
藤衣とは喪服の意。父の死をまだ理解しえぬ、あどけない幼子の姿に、祖父は胸が締め付けられるやうな思ひであったらう。この正風の歌を読まれた皇后は次の御歌を詠まれた。
千代ふべきうまごを杖に呉竹のすくよかにして御代につかへよ
くにのためすてし子の身ををしむにもまづおもはるるおや心かな
(明治神宮編「明治天皇御集・昭憲皇太后御集」)
子を亡くした正風の心の痛みに皇后さまが寄りそはれる。この時、正風は後妻も既になく、老いの独り身であった。御歌を拝した正風の感激は大きかった。明治天皇紀には、正風が皇后さまに謝して献じた歌が載せられてゐる。
児ゆゑにはなかぬ袖をもぬらしけり國のははそのもりの雫(しづく)に
くれ竹のこのこをもまたおほしたてゝさゝけまつらむ君のみたてに
とある。「ははそのもり」は、「柞(ははそ)(くぬぎ・こならなどの総称)の森」に、國の母―皇后さまのおまもり、の意味を込めてゐる。森の恵みの雫は、国母の御なさけに感泣する涙である。そして三代にわたる純忠を誓ふ。天皇と皇后とその臣の間で、歌の贈答を通して、深い心の交流がなされたのである。
正風の歌は、正岡子規や斎藤茂吉が厳しい評価を下したものだが、元彦をめぐって引用した正風の歌には技巧を超えて正風のまごころがこもった歌だと思ふ。
雪中の御乗馬
明治天皇と正風との間には、次のやうな歌のやりとりもあった。
正風が侍従番長のころ、天皇は毎日のやうに乗馬をなさって、正風もそのお相手をした。ある日の御乗馬のとき、急に日が陰り、雪が降り出したかと思ふと本降りになって、四五間先も見えぬほどになった。すると、天皇が馬上から
降る雪を袖にはらひて臣どもと馬はしらするけふのたのしさ
と声高らかに二度吟じられた。そして、高崎はどうだ、まだ出来ぬかと仰る。正風は
降る雪のしらあわはませ乗る人のこころのこまもいさみあひつつ
とお返ししたといふ。雪中、馬上の瞬時の歌のやりとりには、たちまちに変化する自然と、馬上に躍動する体と呼吸と、その中に通ふ君臣の心のリズムが生き生きと感じられるやうに思ふ。正風の生涯の思ひ出の一場面であった(高崎正風述『歌ものがたり』)。
(IBJL東芝リース)
はじめに
私は、平成26年5月から本年3月30日まで4年間にわたって、国土交通省からカンボジア国公共事業運輸省(MPWT)に派遣され、運輸政策アドバイザー(JICA専門家)として活動した(JICAとは政府開発援助を実施する独立行政法人の国際協力機構の略通称)。
カンボジアは、1970年から20年以上にわたってベトナム戦争の戦場になったことや、「原始共産制」を指向する極左のクメール・ルージュが一時統治したことなどから、多くの人命が失はれ(一説には、150万人以上)、道路、鉄道などの運輸インフラも破壊されて経済が停滞してゐた。タイ、ベトナムなどの隣国が経済発展を遂げる中で、取り残された形になってゐた。
1991年のカンボジア和平協定の締結後、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が1993年までの2ヶ年にわたってカンボジアの復興を支援。それ以降、カンボジア政府は、日本を初め各国の協力を得つつ、国の復興・経済発展を図る取り組みを進めてをり、現在、年率7%の高度経済成長を続けてゐる。
カンボジアに着任した私は、日本の国土交通省に相当するMPWTの人達とともに、道路、港湾など運輸インフラの整備、運輸・物流行政の改善に取り組んできた。彼らの中には、内戦で肉親を亡くした人もゐた。しかし、自分の悲しみや苦労を口に出して同情を求めたり、自分の権利や意向をことさらに主張する人には殆ど出会はなかった。カンボジア国の人々は、経済的には貧しくとも、家族を大切にし、礼儀を重んじて穏やかだ。
私は、四年の間に、MPWTとJICAが共催する運輸・物流関係のセミナーやワークショップ(体験型の講座)の実施に幾度も関った。その開会式では、最初にカンボジアと日本の両国国歌がテープで流された。ステージの正面にはイベント名、主催者などを記した看板が掲げられ、そこにはシハモニ現国王、故シハヌーク前国王、シハヌーク前国王妃のお写真も掲げられた。
カンボジアでは、国王誕生日などの特別の祝日だけでなく、入学式・卒業式、セミナーやワークショップなど各種行事の際にも、国旗が掲げられ国歌が斉唱された。
本稿では、カンボジアの国歌の成り立ちや内容について紹介したい。悲惨な体験を重ねてきたカンボジアの人たちが、何を心の拠り所にして生きてきたのか、そして生きてゐるのかが、国歌の中に窺へると思ふからである。
何度か変ったが、クメール王朝賛歌は変らず
カンボジア王国の国歌は、上座部仏教(カンボジアの仏教宗派)のサンガ長(僧王)チュオン・ナートが、カンボジア民謡をもとに1941年に作詞したものといふ。彼はサンスクリット語、タイ語、ラオス語などの語学に通じてゐて、多くの言語関係の書物を著してゐる。
フランスの保護領下で1941年に即位していたシハヌーク国王の尽力によって1953年に正式に独立した際、その歌が独立国「カンボジア王国」の国歌として採用されたのである。
しかし、1970年以降、隣国ベトナムを巡る政治動乱に巻き込まれ、カンボジアの政治体制はたびたび変更された。ロン・ノル将軍によるシハヌーク国王国外追放後の親米政権(「クメール共和国」、1970年~1975年)、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの権力支配(「民主カンプチア」、1975年~1079年)、ベトナムに支援されたヘン・サムリン率ゐる社会主義政権(「カンプチア人民共和国」、1979年~1991年)と体制が交替し、内戦状態が続いたが、1991年の和平協定を受けて、その二年後、やうやく王党派の政権(シハヌーク殿下の国王復位)が実現して、今日に至ってゐる。
国歌は、それぞれの政権の下で、その性格を表す内容に変更された。例へば「クメール共和国」では共和制を讃へる内容に、原始共産制を目指した「民主カンプチア」では革命を讃へる内容にと、それぞれ歌詞が変った。しかし、9世紀から15世紀に栄えたクメール王朝時代のアンコール・ワットなどの寺院を尊ぶ歌詞が一貫して盛り込まれてをり、政治体制は変化しても、クメール王朝の伝統を尊ぶ内容は変らなかった。そして、王制が復活した1993年以降は、1970年までの国歌に戻ってゐる。
カンボジア国歌の内容
それではカンボジア国歌の内容について、具体的に見てみよう。
一番の歌詞では国王を讃へ、二番ではアンコール・ワット寺院に代表されるクメール王朝の歴史伝統をしのび、三番は仏教の僧侶を敬ふものとなってゐる(以下、クメール語の歌詞の邦訳は、ウィキペディアに拠る)。
一、「国王を讃へる」
天は我らが王を守り
王に幸と栄光を与へた
我らが魂と運命を守るために
建国者の子孫は
古き王国の栄光をお導きになる
クメール王朝は、802年から1431年まで続いて、現在のカンボジア王国はそのクメール王朝の系譜を正統に継ぐ唯一の国である。国王は、血統は繋がってゐないが、802年以降現在に至るまでの歴代の国王の系譜が残されてゐる。802年のジャヤーヴァルマンⅡ世の即位以来、ノロドム・シハモニ現国王(2004年即位)まで、王位が途切れることなく継承されてきた。このことは、世襲ではなくとも国王の権威が尊ばれ重んじられてきたことを物語ってゐる。
カンボジアの人々の家には、仏壇がしつらへてあって、王室の方々の写真が掲げられてゐる。私の活動をサポートしてくれた秘書ボメイの実家を訪れた際、シハモニ現国王、故シハヌーク前国王、ご健在のシハヌーク前国王妃のお写真と仏壇が飾られてゐたのを目にし、国王が国民に敬慕されてゐることを実感した。
国王は、クメール正月(4月中旬)、農作物の豊作を祈念する行事、プチュンバンと呼ばれる祖先を祭る仏教行事、メコン河の水に感謝する行事などにお出ましになり、国民の幸せをお祈りされる。かうしたことが、国民の国王への敬意と親近の情を高めてゐるやうに思はれた。
二、「クメール王朝の寺院を偲ぶ」
森の中に眠る寺院は
偉大な王朝の栄光を忘れはしない
クメール民族は岩の様に永遠である
長きに渡り困難を乗り越へてきた
カンボジアの運命を信じさせ給へ
アンコール・ワットは、12世紀前半、クメール王朝のスーリヤヴァルマンⅡ世によって、30余年の歳月を費やし建立された。壁面には当時の人たちが崇めた仏陀が住む天上の世界、現世の人々の世界、諸国との闘ひの様子などが描かれてゐる。
クメール王朝は、最盛期には約100万平方キロの国土を持ち、現在のタイ、ラオス、ベトナムの一部をも領地としていた。その首都は、アンコール遺跡が位置する現在のシェムリアップであった。その後、シャム・スコータイ王朝(現在のタイ)、チャンパ王国(現在のベトナム)等との領土争ひで、領土面積は18万平方キロにまで狭められ、首都もシェムリアップからウドン、現在のプノンペンへと移り変った。
私が、自己紹介で「私の祖先はクメール王朝からやってきた。だから、私の名前はクメール王朝のクメです。」と話すたびに、カンボジアの人たちから大層喜ばれた。また、カンボジアの人たちと話してゐると、必ずと言っていいほどアンコール・ワットやその他の寺院遺跡を訪ねたことがあるかと聞かれる。訪ねたことがあると答へると大変うれしさうな顔になる。そして、遺跡を巡るのに最低三日は必要だと付け加える。
カンボジアの人たちにとって、アンコール遺跡群は、自分たちの精神的な拠り所であり誇りであって、アイデンティティの源泉なのだと、その度に実感した。
三、「仏教の僧侶を尊ぶ」
ブッダの聖なる教へを賛美する
歌がパゴダから湧き上がる
我らの祖先の教へに忠実に従はせ給へ
従はば、偉大なる王国クメールに
天は、惜しみなく寛大に恵み給ふ
カンボジアは、仏教を国教と定めてゐて、国家として仏教を崇めてゐる。仏教徒は全国民1500万人の九割五分以上に達する。全国に3,700のパゴダ(寺院)があり、僧侶の数は約6万人に達するといふ。
カンボジアの仏教は上座部仏教で、僧侶は厳しい戒律を守る。一般の人々は、戒律を守る代りに寺院に寄進、お布施をし、僧侶を大切に崇める。私が活動してゐた公共事業運輸省(MPWT)では、クメール正月、プチュンバン(お盆)、ガッタンと呼ばれる寺院に寄進する行事の際、多くの僧侶を招き大講堂で祈りをささげていただく。また新庁舎の着工式や竣工式など折々の節目にも僧侶を招き、安全祈願、成就祈願が行はれる。
私が、カンボジアに着任した平成26年5月は、シハヌーク前国王(2012年10月に逝去、翌年2月葬儀)の火葬から一年余り後にあたり、墓地への遺灰埋葬の儀が執り行はれた。カンボジア独立の父として尊崇され、10941年から半世紀にわたって国の舵取りを担ってこられたシハヌーク前国王を悼む読経のため、黄色い袈裟を纏った僧侶約3000名が王宮前広場を埋め尽した光景は壮観だった。
私の活動用自動車の運転手を4年間にわたって務めてくれたシデーは、高校卒業後、僧侶を志してパゴダに入門、出家した。しかし、父が病気で倒れて療養生活を余儀なくされたため、家計を支へる必要に迫られ、還俗して運転手としての生活を始めた。僧となることを目指して寺院に入れば、寺院の方で最低限の生活は保障されるが、家計を助けるため止む無く還俗したそうだ。カンボジアの人々にとって、仏教は大変身近な存在となってゐる。
カンボジア国旗の図案
国歌と密接に関係する国旗についても、少しだけ紹介したい。
カンボジア国旗の基本的なデザインは1850年頃に考案されたが、 1948年にフランスの保護領から脱する動きの中で正式に国旗として制定された。国王への敬愛、クメール王朝の寺院への誇り、仏教への帰依を示す国歌の内容が、国旗の図案に反映されてゐる。上下の太い青い二本の線は王権を示してゐて、中央にはクメール王国の寺院を代表するアンコール・ワットの塔が赤地の中に白抜きでデザインされてゐる。白は仏教徒を表してゐるといふ。
国旗のデザインも、政治体制の変化とともに変化してゐる。親米政権だった「クメール共和国」の時代は、米国国旗(星条旗)のやうに三つの星が並び、原始共産主義をめざした「民主カンプチア」の時代は、革命を意味する一面の赤色としてゐる。しかし、政権体制によりデザインが異なっても、必ずアンコール・ワットが国旗の要所に描かれてゐた。
終りに
1070年以降、カンボジア国内は、インドシナ半島の政治動乱の影響もあって、政治体制が共和制、原始共産主義、社会主義と目まぐるしく変り、その都度、国歌の歌詞が変更された。そして、混乱鎮まった1993年、カンボジア王国の独立時(1953年)のクメール王朝の伝統の息づく国歌に復してゐる。国民皆が自然な愛着の念を持つことができる国歌を取り戻したのである。
悲惨な歴史の裡にあったカンボジアは、いま安定した政治体制のもとで国づくりに努めてゐる。私は、JICA専門家として運輸インフラ整備、物流改善の分野でその一端を担へたことを誇りに思ってゐる。そして、カンボジアの人たちが、今後も永く自らの歴史に彩られた国歌を歌ひ、国旗を仰ぎ続けられることを切に願ってゐる。 ─5月30日記─
(元カンボジア国公共事業運輸省派遣JICA専門家、現「日本港運協会」理事)
お題「光」
「光」の文字が詠み込まれてゐればよく、「光線」「栄光」のやうな熟語にしても、また「光る」のやうに訓読しても差し支へない。
詠進の要領
一、詠進歌は、お題を詠み込んだ自作の短歌で一人一首とし、未発表のものに限る。
二、書式は、半紙(習字用の半紙)を横長に用ひ、右半分にお題と短歌、左半分に郵便番号、住所、電話番号、氏名(本名、ふりがなつき)、生年月日、性別及び職業 (なるべく具体的に)。無職の場合は、「無職」と書く(以前に職業に就いたことがある場合には、なるべく元の職業を書く)。なほ、主婦の場合は、単に「主婦」と書いても差し支へない。
三、用紙は、半紙とし、記載事項は全て毛筆で自書する。(一部略)
注意事項(抄)
次の場合には、失格となる。
○一人で二首以上詠進した場合
○既に発表された短歌と同一又は著しく類似した短歌である場合
○詠進歌を歌会始の行はれる以前に、新聞、雑誌その他の出版物、年賀状等により発表した場合
詠進の期間
9月30日まで。郵送の場合は、消印が9月30日までのものを有効とする。
郵便のあて先
「〒100-8111 宮内庁」とし、封筒に「詠進歌」と書き添へる。詠進歌は、小さく折って封入して差し支へない。
お問ひ合せ
疑問がある場合には、直接、宮内庁式部職あてに、郵便番号、住所、氏名を書き、返信用切手をはった封筒を添へて、9月20日までに問ひ合はせる。
(宮内庁のホームページを参照した)
訂正とお詫び
前月号八頁で紹介の『台湾と日本人』(錦正社)の価格は税別二千円の誤りでした。訂正してお詫び申し上げます。
編集後記
今年も「8月15日」が巡って来た。より直接的には「昭和20年8月14日」付の詔書を玉音で拝聴した記念の日である。ごく一部に不穏な動きがあったが、承詔必謹で整然と戈を収めた。敵国は驚いた筈だ。その後6年8ヶ月に及んだ占領統治は、その伝統的な国民精神の紐帯に楔を打ち込むことだった。
(山内)