第681号
執筆者 | 題名 |
山口 秀範 | 〝辱(はづか)しめらるるを悪(にく)みて不仁に居る〟 - 吉田松陰『講孟劄記』の勉強会から - |
前田 秀一郎 | 富士山を仰ぎ観て - 先人の「富士への思ひ」に学びたい - |
小柳 志乃夫 | 青山墓地案内元田永孚 ―明治天皇にお仕へした人々(上)― |
絹田 洋一 | 湯浅入道と楠正成 |
奥冨 修一 | 東京短歌の会 5月26日 春の吟詠会 開催さる - 於・市川市『万葉植物園』 - |
新刊紹介 松井嘉和編著 錦正社 『台湾と日本人』 |
『孟子』を読む
安政2年(1855)萩城下の野山獄で、吉田松陰が同囚の人々に向けて始めた『孟子』講義は、四、五日毎に開かれ、7月月29日には公孫丑上第四章まで進んでゐた。
この章で孟子は「仁なれば則ち栄え、不仁なれば則ち辱(はづか)しめらる」(仁徳を修めてをれば国は栄え、さうでなければ必ず他から屈辱を受けるものだ)と真理を語る。それなのに現実は「辱しめらるるを悪(にく)みて不仁に居るは、是れ猶湿(しめ)りを悪みて下(ひく)きに居るがごとし」(どの国の君主も屈辱を嫌ひながら悪政を止めようとしないのは、濡れるのは嫌だと言ひつつ低地の水溜りに居続ける如きもので、矛盾も甚だしい)と、名君の得難さを嘆いてゐる。
そして、本当に屈辱を受けたくないのなら人を尊べと説き、「賢者(けんじや)位に在り、能者(のうしや)職に在り、国家閒(かん)暇(か)あり」(徳ある賢人がトップの座にゐて、能力ある人士が適材適所で存分に活躍すれば、国家は平穏で余裕が生まれる)と、治世の処方箋を示してくれる。
経営者との勉強会
二年程前から、福岡の心ある経営者諸氏と、朝の勉強会で毎月『講孟劄記』を読んでゐる。日頃親しみのない古文をたどりつつ2500年前の春秋戦国時代に思ひを馳せたり、『孟子』を自家薬籠中の物としてゐる松陰の縦横無尽な論考を追ふのは中々骨の折れる作業である。
そんな経営者たちにとって「賢者位に在り、能者職に在り」のくだりは、「国家」を「我が社」に読み替へれば切実な世界となる。人手不足の中で有能な人材を確保する術とは、良い社員の定着には畢竟社長自身の人間力を鍛へるしかない、「働き方改革」と同時に「働きがひ」の追求こそが欠かせない…と話題の尽きることはない。本来の「輪読」から少々脱線することもあるが、古典を身近に感じてもらへば勉強会が長続きする方便となる。
松陰の目のつけどころ
さて孟子は引き続いて、「閒暇あり」を良いことに遊び呆けてをれば「自ら禍を求むる」ことになると警鐘を鳴らし、「禍福は己より之を求めざる者なし」と断じる。
この言葉に目を留めた松陰は、「禍福」の字はいづれも示偏(しめすへん)で、神に関係深い文字だと言ふ。それ故、禍福とは天罰を蒙(かうむ)ったり神の恵みを受けるやうに捕へがちであるが、孟子の言葉は「禍福天より降るに非ず、神より出づるに非ず、己より求めざる者なし」と理解すべきで、禍福を招く原因はあくまでも自分にある。他者に押し付けず逃げずに自己を磨けと、生きる姿勢に焦点を当てる。
『講孟劄記』のこの章の前半では、国内各地を我が物顔で往来する欧米列強に毅然たる対策を講じ得ない幕府当局は、「辱しめらるるを悪みて不仁に居る」と孟子の言葉を引き、「古今同慨(どう がい)なるかな」(いつの時代も似たやうなものだ)と慨嘆してゐる。
古典にふれて古代支那を知ることは当時の学問の主潮であったが、そこに止まらず我が国の現状を俎上に乗せずにはをられないのが松陰の危機意識だった。加へて、世を憂へ政治を論ずる自分自身の生き方を正すことも決して忽(ゆるが)せにしなかった。「己より求めざる者」には人を動かす力など期待出来ないからである。
国民の覚醒
吉田松陰に学ばうとする我々は、孟子の時代と幕末との双方に身を置き、その上で現代日本を視ることが求められる。しかも傍観者ではなく主体性が常に問はれることになる。
米朝首脳会談に端を発する今後の動向から目を離せないが、トランプ流の政治ショーに惑はされることなく、我が国の生存と尊厳の確保を国民の一人として考へねばなるまい。
戦後70余年の「閒暇」を、安全保障は「天より降る」と思考停止状態で過ごしてきた訳だが、最早遅滞は許されない。防衛力だけではなく、食料自給率四割以下、エネルギー自給率は8%とここでも「諸国民の公正と信義に」一方的に依存し続けて良いのか。
最低限自衛隊を憲法に謳ふことさへままならぬ中だが、事態を打破し国民の覚醒に向けて事あるごとに発言し続けよう。「辱しめらるるを悪みて不仁に居」たと、後世の子孫から後ろ指を指されないためにも。
(寺子屋モデル代表)
はじめに
縁あって平成5年5月に山梨県に移住、爾来25年、富士山を仰ぎ、富士山に見守られながら過してきた。11年前に富士山を南に望む地に小さな家を建ててからは、何時でも好きな時に富士山を望めるやうになった。甲府盆地から仰ぎ観る富士山は、季節により、時刻により、様々に姿が変るので同じ富士山に再び会ふことはできない。まさに一期一会である。次のやうに、拙詠四首。
快晴の元旦(山の端から昇る初日に照らされ、純白の富士山は一瞬金色に輝く)
山の端ゆ立ち初(そ)むる陽(ひ)に高空の白 き富士が嶺(ね)金色(こんじき)に映ゆ
春の曙(射し初むる日に富士の嶺が浮び、未だ暗い高空には明けの明星が耀(かがよ)ふ)
昇る陽に富士見え初めて高空に著(しる)く耀ふ明けの明星
夏の夕べ(甲府盆地を見はるかす丘の林にひぐらしが鳴き始め、青々とした富士山は、徐々に夕闇に消えてゆく)
黄昏に青き富士が嶺かすみゆきひぐらしの声響き聞えく
秋の夜半(台風一過、仲秋の名月が照らす雲一つない大空に富士山のシルエットが浮ぶ)
野分去り澄みし夜空に望月は明(さや)けく照りて富士の影見ゆ
拙い歌であるが、富士山讃嘆の思ひを察して戴ければ幸ひである。
以下、私共の祖先が富士山とどう向き合ってきたかを振返り、私共日本人にとって、富士山は如何なる存在かを考察したい。
富士山と日本人
文芸評論家の小林秀雄は、「鐵齊Ⅱ」(新訂小林秀雄全集第10巻、新潮社刊)に、「日本人は、何と遠い昔から富士を愛して來たかといふ感慨なしに、恐らく鐵齊(註・富岡鐵齊)は、富士山といふ自然に對する事が出來なかつたのである。彼は、この態度を率直に表現した。讚嘆の長い歴史を吸つて生きてゐる、この不思議な生き物に到る前人未到の道を、彼は發見した樣に思はれる。自然と人間とが應和する喜びである。この思想は古い」と記した。
私共の祖先は、富士山を愛する思ひを和歌、詩文や絵画等、様々に表現してきた。また、富士山は信仰の対象でもあった。平成25年に富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されたのは、富士山讃嘆の長い歴史の中で生み出された多様で豊富な文化が評価されたことによる。そこで、私に特に身近に感じられる文化遺産のいくつかを、以下に取上げる。
富士の神山
噴煙を上げ、時に大噴火する富士山は、古代の人々の畏怖と崇敬の対象であった。甲斐の国(山梨県)が詠み込まれた高橋連蟲麻呂作と伝はる長歌を取上げる(萬葉集巻第3)。訓(よ)みは本会会員、岸本弘氏編『朗讀のための萬葉集古義』に依る。
なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と 此方此方(こちごち)の 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽(ふじ)の 高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い行きはばかり飛ぶ鳥も 翔びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち滅(け)ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもかね 名づけも知らに 霊(くす)しくも 座(いま)す神かも 石花海(せのうみ)と 名づけてあるも その山の 包める海そ 不尽川と人の渡るも その山の 水のたぎちそ 日の本の 大和の国の 鎮めとも 座(いま)す神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも |
噴火を繰返し、登ることもできない富士山への畏敬の思ひを雄大に詠んでゐる。常陸の国風土記編纂に関与した蟲麻呂らしく、地理的視点が特異な秀歌である。富士山が水の山であることも詠んでゐる。不尽(富士)川の源は富士山ではないが、歌に詠まれたやうに、石花海(現在の富士五湖の西湖と精進湖)の水源は富士山である。富士山には、年間推定20億トンもの雨水や雪解け水が沁込み、伏流水となって溶岩でできた富士山で磨かれる。数十年から数百年かけて麓から湧き出した清澄な水は、富士五湖等の湖水を形成し、多彩な動植物を育む。平成22年に、絶滅したとされていたクニマスの生存が、70年ぶりに西湖で確認されたのも富士山に磨かれた西湖の清水が、クニマスを守ってきたためと考へられる。
天皇陛下は、その年の御誕生日に際して次のやうにお述べになった。
「クニマスは(秋田県の)田沢湖に だけ生息していましたが、昭和の 10年代、田沢湖の水を発電に利用 するとき、水量を多くするため、 酸性の強い川の水を田沢湖に流入させたため、絶滅してしまいました。ところがこのクニマスの卵がそれ以前に山梨県の西湖に移植されており、そこで繁殖して、今日まで生き延びていたことが今年に入り確認されたのです。本当に奇跡の魚と言ってもよいように思います。(中略)クニマスの今後については、(中略)現在の状況のままクニマスを見守り続けていくことが望ましい様に思われます。その一方、クニマスが今後絶滅することがないよう危険分散を図ることは是非必要です」 (宮内庁ホームページから) |
この御言葉を拝して、現在山梨県の水産技術センターは、山梨大学や秋田県等と連携しながら、クニマスの保全に取組んでゐる。
このやうに富士山は今もなほ、「日の本の大和の国の鎮めとも座す神かも宝ともなれる山かも」との万葉歌の通り、我が豊葦原の瑞穂の国を生み、そこに生きるすべての生き物を守り育ててくれる神である。神(迦微(かみ))とは、国学者の本居宣長が古事記傳三之巻に記したやうに、「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる德(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」であり、それ故日本人は、富士を神の山と崇めてきたのである。
富士山を詠んだ詩
富士山を仰ぎ観ることは、己を正すことでもあり、富士山に関する多くの詩文は、私共の生きる栞となってゐる。私共は富士山の薫陶を受けてゐると言ってもよい。ここでは、鎌倉・南北朝時代の曹洞宗の高僧、大智禅師の偈頌(げじゆ)を取上げたい。大智禅師は、10年余り元に留学後帰朝し、永平第6代の正嫡となった後、肥後の菊池武重に鳳儀山聖護寺(しやうごじ)を寄進され、この奥深い山中の御寺で只管打(しかんた)坐(ざ)の生活を送りながら勤皇の志篤い菊池氏を教導した。聖護寺の法燈は今に伝はり、私は学生時代に参詣し、鈴木素田師に親しくお導き戴く機会に恵まれた。
富士山
巍然独露白雲間、雪気誰人不覚寒。 八面都無向背処、従空突出与人看。 (巍然(ぎぜん)として独露す白雲の間、雪気誰人か寒さを覚えざらん。八面都(すべ)て向背する処(ところ)無く、空より突出して人に看(み)しむ) |
富士山の姿を見事に表現した詩である。因みに禅師の花押(かおう)は富士山であった。
富士山を描いた絵
富士山を描いた多くの貴重な絵が遺されてゐる。ここでは、富士山を生涯描いた横山大観画伯の絵を取上げたい。画伯の富士山の絵を賞賛しながらも、大東亜戦時下に、崇高な富士の姿を描いて国民を勇気づけたことを批判する人々がゐる。しかし、画伯の富士山に対する崇敬の思ひは、生涯を通じて変らず、どの富士の絵にも画伯の同じ思ひが躍動してゐる。敗戦後初めて開催された靖國神社の「みたままつり」に画伯が奉納された「雪洞(ぼんぼり)」の絵を写した扇を、先日、本会員の先輩から恵与戴いた。扇面には、金色の線で富士山の輪郭が伸び伸びと描かれ、その下に「心神」と墨書されてゐる。日本画の窮極は、「気韻生動(きいんせいどう)」に帰着すると確信して絵を描かれた画伯ならではの名作である。
自然と人生
田中英道氏の著書『日本の文化 本当は何がすごいのか』(扶桑社刊)には、平成23年3月の東日本大震災の際、津波の濁流にのまれた老女が、幼い孫を自衛隊員に必死に渡しながら、「天皇陛下万歳」と叫んで息絶えたことが記されてゐる。その孫は助かったが、老女の遺体は未だ発見されてゐない。氏は、この出来事は、日本人の「自然信仰」の表れと説いてゐる。
この「自然信仰」に共通する日本人の心情について、小田村寅二郎先生は、その著書『日本思想の源流─歴代天皇を中心に─』(国民文化研究会刊)に次のやうな趣旨を述べてをられる。「美しい自然に恵まれた国土に住みついた日本人は、大自然を征服するのが人間の使命だなどとは夢にも考へず、大自然のなかにわれとわが心を没するやうにして、心豊かに大自然に相対して生活を営んだ」
おそらく、この老女は自然の猛威に死にゆく運命と諦めながらも、可愛い孫を救ってくれた「可畏(かしこ)き神」への感謝の気持ちが込み上げてきて、死の間際に思はず、「天皇陛下万歳」と叫んだのではなからうか。
をはりに
最後に本居宣長と山梨県出身の歌人、三井甲之(昭和28年歿)の富士山の短歌を味はいたい。宣長が、設計まで細かに遺言した山室のお墓は、天気の良い日には遠く富士山を望める高所にあった。寛政3年、63歳の時、次の歌を詠んでゐる。
遠山霞
心あての霞ばかりにきのふ見しふじのねたどる東路(あづまぢ)の空(濁点は筆者)
(都から東国へ行く途中、あいにく富士山は霞に覆はれて見えないので、昨日見た富士の嶺があると思はれる辺りの空を眺め、富士の姿を慕はしく思ひ量りながら旅行くことである)
三井甲之の歌
みんなみにそびゆる富士は雲立ちて見えずもゆかしそのあるあたり
時を隔てて詠まれた、どちらの歌にも姿に見えない富士山を敬慕してやまない思ひが滲み出てゐる。折々に姿を変へる富士山を日々目にしながら、先人の「富士への思ひ」に少しでも近づきたいものと願ってゐる。
(山梨大学名誉教授)
東京都港区に都立青山霊園―通称〝青山墓地〟がある。都心には珍しい緑豊かで静かな場所であり、そこには明治時代を中心に政治家、軍人、学者などが多く眠ってゐる。今では知られていない先人の墓碑銘に明治の面影を偲ぶこともできる。一時期週末によく通ったこともあり、先般、勉強会の先輩や仲間の案内役を申し出て、「明治天皇にお仕へした人々」をテーマとして墓所巡りを行った。
明治の宮廷改革と聖徳輔導
明治4年7月の廃藩置県は270年に及ぶ藩制度を解体し、天皇親政の近代国家を目指す革命的な大事業であったが、丁度同じ月に、宮中においても大改革が行はれ、旧来の女官などのお側仕へが一新された。この改革を主導したのは西郷隆盛である。明治天皇紀の記事の一節に「参議西郷隆盛おもへらく、国威を発揚せんとせば、よろしく根源に遡りて宮禁(宮廷)の宿弊(古くからの弊害)を改めざるべからず、即ち華奢・柔弱の風ある旧公卿を宮中より排斥し、之に代ふるに剛健・清廉の士を以てして聖徳(天皇の徳)を輔導(たすけみちびく)せしむるを肝要とすと」とあり、西郷は木戸孝允・大久保利通さらに三条実美・岩倉具視を動かして、宮廷の大胆な刷新が実現された。士族を侍従に採用し、天皇は和漢洋の学問を学ばれるとともに、ご乗馬やご親兵の調練なども始められた。
渡辺幾治郎著『明治天皇』には、維新の元勲たちにとって、「天皇親政と君徳の培養はその目標は一にして二ではなかった。…天皇があくまで国民の進歩とその幸福を念ずれば、国民もまた一身一家を省みず愛国の至情を発するものであると信じた」とあるが、それは東洋の理想とする仁政の実現であるとともに、古来の皇室の伝統の新たな発露だった。
明治天皇紀に引用された宮廷改革後の西郷の手紙には「変革中の一大好事はこの(陛下の)御身辺の御事に御座候、全て尊大の風習は更に散じ君臣水魚の交りに立至り申すべきことと存じ奉り候」とある。君臣水魚の交り―天皇と臣下の水と魚のやうな親密で離れがたい交り―とはどういふものだったか。本稿では元田永孚(侍講)と高崎正風(御歌所長)を中心に、明治天皇紀の記事やエピソードをもとに墓地案内での発表を補正して紹介させていただく。
元田永孚のこと
青山墓地を南北に突き抜ける通りぞひに、元田永孚(もと だ なが ざね)の大きな頌徳碑が立ってゐる。徳富猪一郎(蘇峰)の撰文である。永孚は熊本の人、「帝者ノ師ト為リ、宮廷ニ出入スルコト二十有餘年、百揆ノ根元タル(統治の根本となる)君徳ヲ大成スルニ勗(つと)メ」た、明治の御代を高からしめたのは、天皇のご聖明によるものだが、また「先生啓沃(けいよく)(よいと思ふことをかくさず君主に申上げる)輔導ノ力與(あづか)リテ最モ多キニ居ルト謂ハサルヲ得ス」とある。明治の元勲よりも一回り年長で、明治4年、明治天皇の侍読としてお仕へしたのは既に54歳、明治天皇は宝算21の青年であられた。晩年には教育勅語の作成にも関った人物であり、頌徳碑には、その学の深さと広さ、人格の至誠・謙抑・忠義、天皇のご信頼の厚かったことなどが刻まれてゐる。
明治天皇紀は明治天皇のご学問の様子を記してゐて、明治7年1月の記事では、講書始に、福羽(ふくば)美静(びせい)(津和野出身、青山に墓所あり)が『古事記』、加藤弘之が『西国立志編』、永孚は『帝鑑図説』(中国の君主の事績を記した書)を進講したとある。青年天皇は皇后とともにこれをお聴きになった。さらに、当時の日課のご学問では、これら侍読の他に藤波言忠(ふじなみことただ)(後に侍従・主馬頭。青山に墓所あり)など天皇と同年代の若者も陪席して会読が行はれたといふ。
六輔臣の心を一にするは陛下の一誠に在り
同年8月の明治天皇紀には「元田永孚、六輔臣親任の議を上奏す」といふ記事がある。
六輔臣とは、三条、岩倉、木戸、大久保、西郷、及びそのころ左大臣になった島津久光の六名、永孚のいふ「復古の元臣にして陛下の腹心股肱」である。前年明治6年に、朝鮮への使節派遣で政府は紛糾して、三条太政大臣は精神をすり減らして倒れ、西郷以下参議の多くが辞職、年明けには岩倉が征韓派の士族に襲はれて負傷し、他方、大久保たちは琉球島民の殺害事件を巡って閣議で台湾征討を決定、木戸はこれを不満として辞職、久光は洋風を排し旧習に復帰すべきといふ建言書を提出するなど、政治の目指すべき方向がバラバラの状況になってゐた。現在を上回るやうな混乱の様相である。
永孚の上奏は、「帝王の天下を治める要は賢臣に親しむに在り」と書き出し、神武天皇や天智天皇などが英傑賢良の補佐によって大業をなされ万民を保安されたことを回顧し、明治天皇に対して、今、陛下の賢臣を親しみ信ずること果してそれらの天皇と同様かと問ひ、「臣竊(ひそか)に謂へらく、陛下未だ及ぶ能はず」と厳しい意見を述べる。永孚は、現状、天下の変は窮まりなく、六輔臣の意見も分かれてゐる、しかし、彼らの尊王の一心が揺らぐことはなく、陛下は彼らの愛する祖国の主であられる。「故に六輔臣の心を一にするは唯陛下に在り、而して之れを一にする道は他無し、誠意を発して親ら其の廬を顧み(家を訪ね)、親しく其の手を握り、其の親父子の如く、其の愛兄弟の如くならんのみ」と訴へる。
長い上奏は「六輔臣の心を一にするは礼貌(礼儀正しく接する)仮勅(間に合はせの御言葉)の及ぶ所にあらず、唯陛下の一誠に在るのみ」と結ばれる。実に切々たる直言である。
制度政策以前に六輔臣の心が分れてしまったことこそ永孚の最も憂慮するところだった。その臣下の心を一つにすること、それがおできになるのは陛下しかをられず、そしてそれは陛下の誠にかかってゐる、それは永孚が常日頃講じ申し上げてゐる学問そのものであったと思はれる。
天皇がこの上奏をどう受け止められたのかはわからないが、永孚の誠を強く感じられたことだったらう。
実際には、永孚の思ひとは別に、政治指導層内の分離は、大久保率ゐる「有司専制」による近代化政策とこれに対する士族の反乱や民権運動といふ形で尾を引き、明治10年には西南の役といふ維新後最大の非常事態に至った。かうした時流の中で、他方ではいよいよ国家の求心力としての天皇親政と君徳の輔導が大事な課題となる。その君徳輔導の象徴的な職務が、明治10年8月に宮内省に設置された侍補職である。侍補とは「常侍(じようじ)規諫(きかん)闕失(けつしつ)を補益する(常に天皇のお側にあって正し諫め、お過ちを補ふ)」職務で、10名ほどが任命され、永孚も二等侍補を兼ねることとなった。
内廷夜話
天皇は午前は御座所にお出ましになるが、午後は宮廷内に戻られる。侍補が設けられてから、まづは君臣の親和を図る必要があるといふ侍補たちの発案をお許しになって、毎夜当番の侍補二人が内廷に伺って皇后もご同席で談論することになった。明治天皇紀は、高崎正風と元田永孚が当番侍補だった10月6日の様子を記してゐる。その夜は談話の間に天皇は揮毫をなさって、二人にその一枚を下された。
それは御製で、
臣どもを集めてこよひ筆とりて文字のかずかず書きてみせけり
あきのよの長きにあかすともし火をかかげて文字をかきすさみつつ
浅からぬ御心くみて水茎のみあとに袖をぬらしつるかな
と詠んだ。水茎のみあととはご筆跡のこと。一首の中に縁語をとりまぜ、技巧も凝らしてゐるが、正風の感動を伝へる歌である。永孚も黙しがたく漢詩を二つ作った。その一つは
靄(あい)然(ぜん)たる聖意詞章に溢る
身世相忘れて玉床に侍す
殊恩に答へんと欲して一語無く
老臣は唯涙の裳を沾(うるほ)す有るのみ(筆者書下し)
〈あたたかなお心が御製のお言葉に満ち、この身や世も忘れお側に侍してゐる、格別のお心に答へる一語もなく、老臣は唯感涙に衣をぬらす〉といふものだった。「靄然たる聖意」とは、山里に靄(もや)が美しくかかるやうに、あたたかい天皇のお心が自分を包んでくださるといふことだらう。
この年、天皇は26歳、永孚は還暦を迎へた老臣であった。
観菊の宴
翌月21日、昼の御乗馬を終へられた夕べ、天皇は御所内の御苑で近臣と観菊の宴を催された。「今夕天気晴朗、月光天に満ち芳香苑(その)に溢る」と明治天皇紀は記してゐる。西南の役も終息し、この年流行したコレラも収まり、天皇の脚気症も平癒され、酒もすすまれる。天皇は永孚に諸葛孔明の「出師表(すいしのひよう)」の吟詠を命ぜられたが、老いた永孚の声はかすれて続かない。茶を賜った永孚は、お許しを得て楠木正行を詠んだ自作の詩を吟じた。耳を傾けられた天皇は「御感斜めならず」、側近の心配をよそに、今夜は太公望がゐるから心配に及ばずとさらに盃を重ねられた。永孚を中国古代の名臣太公望に類(たぐ)へられたのである。夜10時、侍従が燈火に映る菊を楽しまれてはと、暗に場所を移すやうお勧め申し上げると、菊は毎年見れる、今夜は永孚の元気な声を聞いておきたいとの仰せであった。皆は「老臣を遇せらるるの厚きに感泣す」と明治天皇紀は記す。夜の11時になってやうやく天皇は騎馬でお帰りになった。
その夜の天皇のお話は広く内外の諸般に及び、その卓説に侍補たちは感嘆したといふ。侍補といふ職は、政治的な理由から二年ほどで廃止されるが、永孚は長く天皇のご相談相手となった。
(IBJL東芝リース)
昨年、研修旅行で和歌山に行くことになり、行程に「湯浅醤油の蔵」見学とあるのを見て胸が躍った。和歌山の湯浅といへば楠正成に敗れ、その後正成と共に戦った湯浅入道に関はりがあるのではないか─
□
元弘元年、赤坂城で挙兵した楠正成は、幕府の大軍を散々に苦しめたが、急の挙兵のため長期戦の備へはなく、城に火を懸けて自害の体を装ひ、一旦落ち延びた。幕府方は「あなあはれや。正成はや自害をしてんげり。敵ながらも、弓矢取つて尋常に死にたる者かな」(『太平記』)と誉めぬ人はなかった。
幕府は赤坂城跡に地元の御家人、湯浅(ゆあさ)孫六(まごろく)入道定仏(じようぶつ)を置いてゐたが、翌年正成が再挙して赤坂城を攻めた。湯浅は深夜に兵糧を運び入れようとするが、正成はこれを知って兵糧を奪はんと配下に湯浅の兵を装はせ、城の前で偽湯浅兵を襲ふふりをする。湯浅は我が兵を救へ、とて偽の味方を救って城に入れる。城内に入った楠勢が早速鬨(とき)の声をあげ、同時に城外の楠勢が城門を破って攻め込む。湯浅は「戦ふべきやうも無かりければ、忽ちに首をのべて」降伏した。
正成は見事な策略で赤坂城を奪回したが、この湯浅が意外な形で再び登場する。後に、正成は五千余騎の幕府軍を巧みに撃破するが、名将宇都宮率ゐる七百余騎には警戒し、「楠、天王寺を立ちければ、和田・湯浅ももろともに、うち連れてぞ引きたりける」と一度(ひと たび)は退却する。和田は楠の一族だが、湯浅は御家人であった。この時既に正成の配下になってゐたことになる。圧倒的に優勢な幕府方から、劣勢な南朝方に寝返ったのである。これは尋常ではない。何があったのか。
降伏の際、助命を乞ふてやむなく配下となったか。或ひは正成と対面して感服し、正成を慕って配下となったのか。私は後者であっただらうと思ふ。理由を挙げる。
□
一、持久戦の末に宇都宮は撤退、一戦も交へず天王寺を奪回した正成は智謀、深慮の良将と賞賛される。「天王寺にうち出でて威猛をあらはすといへども、民屋に煩ひをもなさずして、士卒に礼を厚くしけるあひだ、近国は申すに及ばず、遐壌(かじよう)遠境(えんきよう)の人(じん)牧(ぼく)(遠方の豪族)までもこれを聞き伝へて、われもわれもと馳せ加はりける」
幕府軍を翻弄する一方、民家に迷惑をかけず、将兵にも上下の別無く礼を尽す正成を慕って遠方からも続々馳せ参じたとある。降将にも礼を尽くしたであらう正成に、湯浅は感服したのではないか。
二、後に正成は金剛山千早城に拠り、幕府軍百万騎と戦ふ。目的は一つ、持ち堪へて味方の挙兵を待つことであった。奮戦を続けても眼下に広がる無数の敵。内通者が出て当然の絶望的な状況下、湯浅は裏切らなかった。感服する正成と生死を共にしようと覚悟してゐたのである。
三、正成の子正行(まさつら)は、敗走して厳寒の川に落ちた敵兵五百余人を引きあげて手厚く介抱し、衣服や武具を与へて放免した。「されば、敵ながらその情けを感ずる人は、今日より後心を通ぜん事を思ひ、その恩を報ぜんとする人は、やがてかの手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける」
「かひ無き命を楠に助けられ」た幕府の兵は感泣し、いづれは敗北する運命の楠方に寝返って正行と死を共にする。父の遺志を継いだ子は父に倣ふ。湯浅も正成に放免を告げられ、その情けに感じたのではないか。
□
あの湯浅入道と関りがあるのだらうか。その疑問はバスが到着するや否や解決した。「湯浅醤油」の壁に描かれた紋が「九曜(くよう) 菊」 だったのだ(九曜紋=中央に大きな星をおき、その周囲に八個の小さな星をおいたもの)。「半菊の下に九曜」といふ紋は、「半菊の下に水の流れ」を描いた楠氏の「菊水」の紋を彷彿させた。正成同様、湯浅も後醍醐天皇から菊の紋を賜ったに違ひあるまい。店の方に尋ねると、「昔、何かの功績があり、菊の御紋を賜ったと伝へられてをります。ただ当店は、その方の直接の子孫といふことではないやうです」との答へが返ってきた。少し残念ではあったが、地元の人々が湯浅成仏を誇りとしてその紋を使ってゐることが感じられて、蔵の紋を目にした時の感動は変らなかった。
湯浅はその後─
正平7年、後村上天皇が住吉を行幸された際、楠正儀(まさのり)(正行の弟)、和田、湯浅入道らが供奉(ぐぶ)し、警固にあたった、とある。湯浅は正成、正行の討死後も南朝方の将として楠氏と行動を共にしてゐる。
(大阪府立長尾高校教諭)
本紙5月号で御案内の「東京短歌の会」春の吟詠会が、予定通り千葉県市川市の万葉植物園で昨秋に続き開催された。曇り空ではあったが、風さはやかな庭園で草木を賞(め)でつつ詠草に取り組んだ(参加者12名)。
午前中は歌を詠み、午後は相互批評を行った。同一の草や花であっても人によって表現が異なるなど学ぶことが多かった。
その後、聖徳太子の勉強会(四土会)の紹介が行はれ、黒上正一郎先生の「太子のご本」の中から万葉集に関する箇所を読み味はった。
この度、再訪した植物園には黒松の苗が新たに植ゑられてゐた。この苗は滋賀県大津市唐崎にある名勝「唐崎の松」の種をもらひ受けて育てたものといふ。現在の大津市の「唐崎の松」の由縁は7世紀の舒明天皇の御代までさかのぼって三代目(樹齢260年~300年)といふから、市川市に植ゑられた苗は四代目となる。「唐崎の松」は柿本人麻呂、紀貫之、松尾芭蕉などによって歌や俳句に詠まれてゐる。
ささなみの志賀の唐崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ
(柿本人麻呂・万葉集)
唐崎の松は扇の要にて漕ぎゆく船は墨絵なりけり(紀貫之・古今集)
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて(松尾芭蕉・野ざらし紀行)
この松の二代目の分身が金沢市の兼六園で銘木「唐崎の松」として大切にされてゐる。市川市の苗も立派に育って欲しいものだ。
(東急建設(株)元常務取締役)
吟詠会参加者の詠草(抄)
さいたま市 飯島隆史
池の辺にすっくと立ちし葵(あふひ)草(くさ)うす桃色のつぼみつけたり
たらの木の緑葉ゆらし風わたり心地よきかな今朝の集ひは
市川の万葉園に山がらの鳴く声聞けば夏近づきぬ
横浜市 池松伸典
踏石の間をうづむるはまひるがほのうすもも色に花咲きにけり
さ緑の枝葉の陰にまろき実のたわわに実るすももの木かな
府中市 磯貝保博
梅雨近き曇り空にも花や木の緑の映えて鳥も鳴くなり
シジュウカラ身は小さくもツピツピと鳴き声高く響き渡れり
我が家の庭の花木の立札に記してあればうれしかりけり
千葉県酒々井町 内海勝彦
をちこちの青葉をゆらしさやさやと渡るそよ風心地よきかな
防人の茨(うまら)の末(うれ)に這(は)ふと詠みしからまり生(お)ふるやぶ豆を見つ
子規も詠みしイチハツの名の見ゆれども花散りはてて惜しくもあるか
市川市 宇野友章
さらになほ伸びんとすなる幹切られ横に枝はるヤマザクラかな
葉の上に茎伸ばしたるアヂサヰの水色の花今盛りなり
空を吹く強き風にもゆるがずにクロマツの枝力づよきも
川越市 奥冨修一
梅雨空もまぢかくなりて万葉の庭のあぢさゐ咲き初めにけり
をちこちに茎を伸ばして涼しげにハマヒルガホは薄赤く咲く
恋ふ人に再び逢はむと思ひ込めいにしへ人はあふひの花詠む
「唐崎の松」を受け継ぐくろまつの若木の苗の育てと祈る
紫の小さき花のさはにつく「五月雨(さみだれ)萩(はぎ)」をめづらしと見つ
茅ヶ崎市 北濱 道
むらさきに黄の差す薄き花びらのあやめの花の目に沁みにけり
薄紅の小さき花の群れ咲きてにほふシモツケ飽かず眺むる
世田谷区 小柳志乃夫
ホタルブクロのつり鐘なせる白花に蜂入りゆきぬ蜜を求めて
水面(みなも)ややゆらぐと見れば水草の下にめだかの寄りて遊べる
うす青に染まりはじめしあぢさゐの花初夏の風にゆれつつ
一本(ひともと)の大根(おほね )ゆ枝葉しげらせて紫にそむ花咲き乱る
野いちごは赤々と生(な)り梅も梨も青葉の陰に実る今日かな
ひたちなか市 佐川友一
万葉に詠まれし草と木はなべて優しげに見ゆなつかしきかな
モミの木は西洋の木と思ひ居りしに「臣の木」の名を歌にて知りぬ
八千代市 中村正則
市川の万葉園に友と来て真間の手児奈の古(いにしへ)思ふ
をのこ等は五月五日に冠に菖蒲を帯びて薬狩りせり
たちあふひ清(さや)けく花をまとひつつ空突くごとくスックと立てり
埼玉県吉見町 藤井 貢
あぢさゐの咲き初めにける万葉の園に友らと集ふは楽し
しもつけてふうす紅色に咲き誇る花の姿に心ひかれぬ
今の世に忘れられたるひえやあはきびを植ゑたる人の心よ
柏市 澤部壽孫
万葉の祖先(みおや)詠みたる草木(くさき)見て歌を詠まむと友ら寄り来る
そびえ立つこならの木々の葉を揺らし風渡りゆく薄曇る日に
葉緑の濃きボクハンの木に成れる茶色の二つの実の目にとまる
シモツケの淡きピンクの花びらに風のさやげばゆらぎ止まずも
松井嘉和編著 錦正社『台湾と日本人』 税別900円
日本航空と全日本空輸と言へばわが国航空業界を代表するナショナルフラッグと言ってもいい大きな存在だが、6月19日付の各紙によれば、この二社がホームページでの「台湾」の表記を「中国台湾」に変更したことに対して、台湾外交部が両社に抗議し訂正を求めたといふ。日本語では従来通り「台湾」のままだが、中国語の表記を選ぶと「中国台湾」と表示されるといふのだ。
ちゃうど標題の書を読んでゐたので、これまで以上に「台湾」について、「台湾と日本人」について考へざるを得なかった。
この度の大手二社の「中国台湾」への表記変更の裏に、北京の中国共産党政権(中華人民共和国、1949年成立)のかねてからの台湾解放といふ名の独善的な「宿願(夢)に発する政治的要求」があることは言ふまでもあるまい(4月下旬にも、世界各国の航空会社に書簡を送ってゐた)。
「中国台湾」への変更要求は、これまで一瞬たりとも台湾を統治したことのない共産党政権が新たに放った「台湾は中華人民共和国の一部である」との政治宣伝であった。では「台湾」はどうなってゐるのか。
現在の台湾は国号「中華民国」の下にあるが、そこに無理はないのか。
戦後、台湾は日本の統治から蔣介石率ゐる中国国民党の「中華民国の台湾」になったが、「中華民国の台湾」でもなく、まして「中華人民共和国の台湾」でもあり得ない「台湾人の台湾」が確実に存在してゐることを本書は具体的に教へてくれる。
なぜ日本が去ったあとの「中華民国の台湾」で、国民党政権は38年もの間、戒厳令を布告し続けなければならなかったのか。
「…蔣介石とその国民党政府には『台湾統治に対する〝正統性〟が欠けていた』のである。台湾において『中華民国』を支える大陸系の人々は、台湾人の10数%にすぎず、その少数の人々がこの島で力ずくで支配することにより、矛盾が幾重にも重なっていったのである」
(196頁)
台湾に生れ育った台湾人にとって「中華民国の台湾」は仕合せではなっかたのだ(今後もし「中華人民共和国の台湾」になったとしたら、もっと悲惨なことになるだらう)。しかし、「中華民国の台湾」で、総統が直接選挙で選ばれるまでに民主化がすすみ、「台湾人の台湾」が現実のものとなりつつある。だが「中華民国」の看板を降ろすことができない。「中華民国」の冠称を外すと、「台湾人の台湾」となるが、それは「台湾独立」であるとして軍拡を続ける大陸側からミサイルが飛んで来るかも知れないのだ。「中華民国」を冠してゐる限りは、中国支配下の台湾となるから、さし当ってはミサイルは飛んで来ない(李登輝元総統の言ふところの「台湾人に生れた悲哀」に通じる苦渋の現実にある)。
本書冒頭の20頁余に及ぶ「はじめに─台湾を見る目─」は優れた文化論的な台湾論であって、文字通り「台湾を見る目」の勘どころが詳説されてゐる。以下、先史時代に始まって、日本領有時代にまでの「台湾の歴史」が記され、ことに第三章ではわが国の台湾経営が「人物と施策」のよろしきを得て、〝瘴癘(しようれい)(伝染性の熱病)の島〟を米の輸出地へと変貌せしめたこと等々が淡々と述べられてゐて大いに教へられる。人物中心の逸話が囲み記事の形で所々に掲載されてゐるのも興味深く、さらに李登輝元総統からの〝戦後日本人への直言〟もあって、これらから台湾経営に真正面から取り組んだわが明治国家の力強さと真面目さが自づと浮び上って来る感じであった。
この度の航空二社の動きなど事大主義的盲動で恥づべき所行と言ふほかはないが、より良き日台関係のためには「台湾人の台湾」への広く一般の深い理解が不可欠だ。本書はそのための基本となるものと思った。
(元拓殖大学日文研客員教授 山内健生)
福岡「油山慰霊祭」の御案内
日 時 8月19日(日)午前11時開始
場 所 「自刃の碑」前
参加費 1000円(学生は無料)
直 会 例年通り「正覚寺」で。食事はご持参下さい。
献詠歌は8月10日までに、古川広治氏(cmtqx781@ybb.ne.jp)(fax 092-928-1579)へご提出をお願ひします。参列の有無も合せてお知らせください。
江戸無血開城150年
西郷隆盛と幕末三舟の書展
─書より見た英雄の無心のはたらき─
西郷隆盛と三舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟)の遺墨展─「江戸無血開城」は、彼らの武士道精神によって実現したともいへる。それは江戸百万の人々を戦火から救ふとともに、欧米列強による植民地化を防いだことにもつながった。明治の世になって、彼らは多くの書を揮毫した。(書展の案内から)
日時・7月16日~22日 会場・加島美術ギャラリー 東京都中央区京橋3─3─2 03─3265─0700
※本会も後援してゐます(入場無料)
役員の選出について
6月24日の平成30年度通常総会において、新理事に池松伸典氏、新監事に小田村初男氏が選出され、その後の理事会で小柳志乃夫理事の副理事長就任が決まりました。
編集後記
5月の日中首相会談では年内の安倍訪中と習近平来日で合意。だが“関係改善”の裏で尖閣への領海侵犯は続く。6/25は四隻だ(産経)。北の核も拉致もある。これらに国会もメディアの大勢も関心がないのか。
(山内)