第680号
執筆者 | 題名 |
合宿教室(西日本)“導入 講義”與島 誠央 |
いざ共に歴史の世界へ - 合宿教室への誘ひ - |
廣木 寧 | 先学の文章に学ぶ - 『国民同胞』合本をひもといて - |
大岡 弘 | 女性天皇に課せられた不文律(下) - 女性摂政制度と皇室古来の伝統的原則 - |
上村 和男 | 「国民同胞」昭和37年2月号 労働こそ非人間化を救ふもの |
新刊紹介 山口秀範著 『和誠礼勇―「教育往復書簡」に導かれる日本一の小中学校開設事業―』 |
来る8月24日(金)から26日(日)までの2泊3日、福岡県篠栗(ささぐり)町にある県立社会教育総合センターにて、第63回の全国学生青年合宿教室(西日本)が開催される。
篠栗は、福岡市街地から東に車で小一時間の近郊でありながら、周囲を緑深い山々に囲まれた景勝の地である。その木々に包まれるやうにして、巡礼のお寺がそこかしこにあって、お遍路さんが山道を行き交ふ。
この落ち着いた環境の中、今年の合宿は「現代(いま)をより善く生きるために―人は後ろ向きに未来に入って行く―」と題して営む、と廣(ひろ)木(き)寧(やすし)運営委員長から連絡を頂いた。テーマは全体を統べる。この合宿に参加する皆が、「より善く生きるため」の糧となるものを得て欲しい、との願ひを強く感じた次第である。
副題には、そこに至る道筋が示されてゐると感じた。私たちはこの肉眼で、未来そのものを見ることは出来ない。しかし、積み重ねられた歴史を見つめることで、より善き未来を目指すことが出来る、と。
故平泉澄博士(東大名誉教授)は、昭和53年、著書『物語日本史』(講談社学術文庫)の序に、およそ30年前の出来事として次のエピソードを記してゐる。
《終戦の23年後でありました。山奥の小さな村の秋祭りのために、私は下駄をはいて山道を登ってゆきました。日の光はさんさんとして山々を照らし、暑からず寒からず、楽しい眺めでありましたが、足が少々疲れてきて、学校帰りの児童三四人に追付かれました。児童はいかにも楽しそうに歌を歌いながら登って来ました。いつしか気やすく友達になった私は、尋ねてみました。
「君が代、知っているかい。」
「君が代?そんなもの、聞いたことない。」
「日本という国、知っているかい。」
「日本?そんなもの、聞いたこと無いなあ。」
「それではアメリカという国、知っているかい。」
「アメリカ?それは聞いたことあるなあ。」
私は慄然として恐れました。世界には、征服せられ絶滅せしめられて、その民族の運命もその文明の様相も、明らかでないものが、いくつもあるが、それが今は他人事(ひとごと)ではなくなったのだ、と痛歎しました。》
信じがたいほどのやりとりである。しかし、これが占領を受けた国の現実であった。「日本」が消えて無くならうとしてゐるのだ。
「痛歎し」た博士に光明が差したのは、占領が解けた翌年、昭和28年5月のことであった。福井に訪れた博士は、中学生への講話を頼まれた。短時間の講話で博士は語りかけた。
《「皆さん!皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」》
千人の生徒達は瞳を輝かせた。その視線は、見るといふより、射るやうであった。帰る際にはタクシーを取り巻き、片時も博士から離れまいとする。博士はこの思ひ出を「私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました」と綴ってゐる。
『物語日本史』はこの体験から生まれた。誠実に父祖の辛苦と功業を子どもたちに伝へ、父祖の精神を受け継いで欲しいと願ったのである。
本合宿の案内状には「日本人とは何か。人生とは何か。共に学び合う心の交流の場に、皆さんも是非ご参加ください」との呼びかけがある。
ここで改めて問ひたい。私たちは自分自身をどれだけ知ってゐるだらうか。私たちは何のために、この世に生を享けたのだらうか。
自己を知ることは、ギリシアの哲学者ソクラテスも語るやうに、難題である。しかし、平泉博士の話を食ひ入るやうに見つめてゐた子どもたちは、どうだらう。彼らは講演の中で、自分自身の人生が、父祖の歴史と共にあることを、確と感じたのではないか。自分が何者であるかを摑んだからこそ、博士のもとを離れがたかったのではないか。
来(きた)る合宿教室が、参加者自身の人生を知るものとなり、自分は確かに父祖の歴史の中に生きてゐる、と体感する場となることを切に願って止まない。
(福岡県立筑紫中央高校教諭)
1
昭和50年10月に『国民同胞』の合本が作られた。その「出版予告」の文が「国民同胞」10月号(第168号)に載った。第1号(昭和36年11月)から150号までを3巻に分けての出版である。「昭和36年11月の創刊号以来、同胞感の信にもとづく諸論説、歌論、時事批判など今日迄、読者各位の御支援のおかげで、休みなく編集刊行してまゐりましたが、(中略)通算1200頁を製本三分冊にしてお頒(わか)ちすることに致しました」と永年編集長を務められた寶邉正久先生が書かれてゐる。学生の僕はすぐに購入を希望した。
届けられた合本三巻をあちらこちらと拾ひ読みした。今に感興を残してゐるものの中から、二、三取り上げて思ふところを述べてみたい。
2
昭和45年11月14日土曜日の午後に、電源開発契約課長の長内俊平先生が、銀座の柳瀬ビルにあった国文研の事務所を「久しぶり」に訪ねられた。理事長の小田村寅二郎先生は不在であった。小田村先生の机の前の壁に小田村先生の筆で書かれた「義宮様(常陸宮正仁親王)の御幼少の頃の作」として次の歌が掲げられてあった。
テレニュース見つめ居たまふ父君(ちちぎみ)のみ顔はくもるストの叫びに
安保の騒ぎの折の歌とある。
お歌を長内先生が偲んでをられると、小田村先生が帰って来られた。机に向かって長内先生と話をしながら小田村先生がガリを切らうとされる。
「私で出来ることなら致しませう」「長内君、道を伝へるといふ仕事(行)は下請けには馴染まぬものらしいね」(傍点原文)
この後、神を拜(おが)むといふ話になり、その話が終ると、小田村先生は、先輩の桑原暁一先生に電話を掛けられた。この日の夜に『日本思想の系譜』の編集委員会があることになってゐた。
国文研叢書の『日本思想の系譜』(全五巻)は昭和44年3月に刊行を終へてゐたが、この五巻本に、時事通信社代表取締役長谷川才次氏が多大の興味を示した。昭和45年の6月上旬に同社の出版局長が部下を連れて銀座の事務所を訪れ、当社の来年度の主要事業の一つに、『日本思想の系譜』を取り上げたい。内容は既刊のままでもよろしいが、採択文献を再検討していただいてもいい、との申し出があった。
小田村先生は国文研叢書の編集委員と急ぎ協議し、お引き受けしよう、ついては、国文研版を作成した時には、その時々の各自の身辺事情に煩はされて十分に意を注げなかったところがあるし、今から年末までの時間があれば、約七ヶ月あるわけなので、今回再編集するからには国文研版の内容の全部に亘って再検討を加へ、然るべく加除訂正をなし、全力を傾注して、より良いものに仕上げようではないか、との結論に達した(『新輯日本思想の系譜』時事通信社刊「あとがき」小田村先生執筆)。
11月14日の『日本思想の系譜』編集会議には桑原先生の出席はどうしても必要であった。その理由について、小田村先生は、桑原先生を追悼する文で述べられてゐる。
昭和48年5月19日に桑原先生は逝去された。『国民同胞』昭和48年6月号(第140号)は桑原先生追悼号となった。その巻頭の「追悼のことば」の中で、小田村先生は、「私の名がその編者となって世に出てゐる時事通信社版の『新輯日本思想の系譜─文献資料集』をはじめとして桑原さんの推進力と選択力と、急所を衝いた文献の指摘力とは、つねに同人の協同作業における要(かなめ)の役目をしてをったのである」
さういふ必要不可欠の桑原先生が、外に出席すべき集まりが二つあるといふ。小田村先生は十分を要して桑原先生を「口説きおと」された。
そのあと、小田村先生は、合宿感想文集の値段の話、来年の合宿の話をされて、また出かけられた。小田村先生が事務所にをられた時間は約二時間。長内先生の文章は題して「国文研東京事務所での二時間」といふ(『国民同胞』第110号 昭和45年12月)。
3
今一つ、合本で読んで今に残る文章は、桑原先生が、昭和44年11月(第97号)に書かれた「田所兄(けい)の憶(おも)い出」である。田所さんとは田所廣泰氏のことで、旧制第一高等学校、東京帝国大学を通じての、桑原先生、小田村先生の先輩であった方である。
話は桑原先生が旧制高校の一年生か二年生の時であった。桑原先生は田所さんがリーダーである昭信会といふサークルに属してゐた。桑原先生は往時を回想する―「ぼくは昭信会が窮屈でたまらなくなった。大っぴらに許されている本は、明治天皇御製集と、三井甲之先生の『明治天皇御集研究』と、黒上正一郎先生の『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』の三冊であるように思われた。田所兄そのほかの先輩は、黒上先生歿後間もなくのことで、極度に緊張していたと思われる。ぼくのように、直接黒上先生を知らぬものには、その緊張感はすぐには同感できぬものであった。田所兄と同学年の、新井兼吉兄の研究発表のあった時など、ぼくは、たゞ彼の手にしている原稿の減ることだけを気にしていた。居眠るものは、田所兄の、卓を叩いての叱咤に目をパチクリさせた。」
桑原先生は同級のO君と連れ立って脱会を申し出ようと世田谷代田の田所さんのところに出向いた。二人を迎へた田所さんは、桑原先生の言葉をかりると、「例のように、うれしさを全身にあらわして、迎え」た。
どちらが言ひ出したかはおぼえてゐないと桑原先生は回想してゐるが、「昭信会をやっていく自信はないから止めさせてもらう」といふやうなことを伝へると、田所さんは、「卓上の花瓶を手にして、自信というのは、この花瓶のような固定したものをつかむというのではなくて、どこまでも、ほんとうのことを求める、ということではないか、と云った。」―この、説明といふより、田所さんの信念を聴いて桑原先生は「気持ちがスッキリして」、O君とは別々の気持ちで、田所宅をあとにした、とのことである。(傍点原文)
4
大学一年生のときから、僕は国文研の指導をうけてゐた九大信和会に入ったが、僕が少しづつではあるが本が読めるやうになるにつれて、「窮屈」といふものをほとんど感じることがなくなっていったのはありがたいことであった。鷗外漱石、それから当時現役の作家だった小林秀雄、福田恆存、江藤淳など読んでは感想を述べ合った。小柳陽太郎先生の指導のもとにあったからだと思ふ。
学生時代から今に続く、日本人として、生きる意味を求める学問探求は、小林秀雄の『本居宣長』のなかの言葉でいへば、「聖学を求めて出来る限りの雑学をして来た」、いや、それを目標として来た、といふことであった。ここにいふ「聖学」は田所さんの言葉でいへば、「ほんとうのことを求める」ことになると思ふ。30数年かかって『古事記伝』を成したとき、手の舞ひ足の踏むところを知らずと歌ったところから見ても、おそらく、宣長は狂ふがごとく「聖学」を求めて「雑学」をして来たのだ。なんともうらやましい生涯ではないか。
*
ここまで書いてしばらく経ったある日、突如、桑原先生の言葉が思ひ出された。何に書かれてゐたかは忘れたが、それは、少年よ、大志を抱け、と訳されて知られてゐるクラーク博士の"Boys, be ambitious."についてである。国文研に学ぶわれら学徒は肝に銘ずべき言葉ではないかと思はれるのだが、先生は次のやうに意訳されてゐる。――「人まねするな」
(寺子屋モデル)
『国民同胞』合本について
本紙50号ごとに刊行されてゐる合本はこれまで既刊13巻となってゐます。その内、第6巻~第9巻は在庫が僅少です。国文研事務局にお問ひ合せ下さい。
比較的に近刊の第10巻以降の各巻に収載されてゐる号数と発行年月は左の通りです。
第10巻(第451号、平成11年5月~第500号、平成15年6月)、
第11巻(第501号、平成15年7月~第550号、平成19年8月)、
第12巻(第551号、平成19年9月~第600号、平成23年10月)、
第13巻(第601号、平成23年11月~第650号、平成27年12月)。
頒価2400円 送料350円
(2冊以上お求めの場合は特別頒価で一冊につき2千円。送料は2冊で560円、3冊で710円です4冊はお問ひ合せ下さい)。
7.近代以後の女性摂政制度第三期
明治22年2月11日、紀元節の佳日に、皇室典範が制定された。その冒頭第一條には「大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」と謳はれて、皇位継承の有資格者は、皇統に属する男系の男子皇族に限られた。すなはち、女帝や宮家女性当主の制度は廃止されたのである。
また、天皇および皇族以外の男性と婚姻した女性皇族は、夫の身分に従ひ皇族ではなくなることになった。逆に、勅旨により特に認許せられた華族の家の女性が、天皇または男子皇族との婚姻を通じて皇族となる制度となった。「皇族」といふ用語は、歴史的に見れば「皇親」といふ用語を引継ぐ言葉ではあるが、皇室典範の制定によって、包含する内容はかなり異なることになったのである。
皇室典範第1條の規定によって、皇統に属する男系の女性皇族が皇位継承の有資格者でなくなる一方、一般には血統上皇統に属されない可能性の高い皇后、皇太后、太皇太后、並びに、皇統に属する男系の内親王および女王の方々が、皇室典範第21條の規定によって、摂政就任の有資格者となられた。内親王および女王の就任順序は、皇族男子の皇位継承順序に準じて先後を定めるとされ、さらに、第23條で、かう規定された。
第23條 皇族女子ノ攝政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル
この趣旨を『皇室典範義解』は次のやうに解説してゐる(伊藤博文著『憲法義解』に所収、岩波文庫本)。
「恭(つつしみ)て按ずるに、上代旣に嫁するの皇族女子攝政に任ずるの例あることなし。蓋(けだし)(思ふに)其の夫に從ふの義と並行すべからざればなり」。
前号で述べた第一期、第二期の皇位継承、並びに、宮家継承では、女性天皇および女性当主は、総て皇統に属する男系の皇親であられたこと。また、「御在位中、並びに、それ以降は、生存する配偶者を持つことを許さず」といふ不文律が、暗黙の了解事項として当事者の女性皇親には課せられてゐたと判断できること。この二点を前号では詳述した。
では、何故このやうな不文律が課せられてゐたのか。それはおそらく、前述した『皇室典範義解』が説くやうに、「皇族女子には其の夫に従ふの義あり」の故であらう。
8.「女性摂政」の資格要件
摂政とは、「み位」に就いてをられる天皇に代って、天皇の大権事項(一切の大政および皇室の内事を総攬すること)を摂行するといふ、極めて重大な地位である。その職権は摂政に固有のものといふよりは、現に皇位に就いてをられる天皇の御存在より発する、特別な権限である。
天皇が未だ成年に達しない場合、並びに、天皇が久しきに亘る故障により大政を親(みづか)らすることが出来ない場合に限って、摂政が置かれる。
「女性摂政」の資格要件は、「女性天皇」および「宮家の女性当主」の場合とは、根本的に異なる点がある。まづ、女性摂政就任順序の筆頭に挙げられてゐる皇后の規定は、これをどう受けとめたらよいのか。現行の皇室典範第十七条にも、摂政就任の順序として、皇太子又は皇太孫、親王及び王に続き「皇后、皇太后、太皇太后、内親王及び女王」といふ規定があり、生存する配偶者をお持ちのお方としては、皇后のみが挙げられてゐる。皇后は、歴史的にみると藤原氏等の臣下出身の血統のお方の場合が多い。班位(序列)第一位の筆頭皇族とされる近代以後の皇后の場合も、皇統には属してをられないお方のほうが、むしろ普通なのである。血統上皇統に属されるとは限らず、かつ、配偶者をお持ちの皇后が、摂政御就任の資格を保有される。これは、女性皇親の女帝御即位資格要件とは、明らかに異なる点である。
井上毅(こはし)は、歴史上「中継ぎ役」と観られる女性天皇方を顧みて、過去の女性天皇方が果された主たる役割は、幼少の男子皇嗣が成年に達するまでの間、今日で言へば「摂政」の任に当る者が担ふべき役割に近い務めを果されたものと捉へた。
井上をはじめ明治の諸賢が辿った立案・検討の過程を、「摂政就任の有資格者」といふ点に的を絞って、以下、具体的に見てみよう。
9.井上毅の「摂政就任順序」案の変遷
明治20年1月下旬から2月上旬にかけて、井上毅は、伊藤博文の命により、柳原(やなぎはら)前光(さきみつ)起草の「皇室法典初稿」に大幅な修正を加へてゐた。これを「摂政就任順序」案に的を絞って見てみると、以下のやうになる(以下は、前号掲載の小林 宏論文「井上毅の女帝廃止論―皇室典範第一条の成立に関して―」による)。
柳原前光の「皇室法典」案
摂政ハ大政ヲ摂行スルコトヲ掌管ス、之ニ撰任スヘキ者ノ順序、左ニ開列ス
第1 成年以上最近ノ皇族男子
第2 皇后
第3 皇太后
第4 太皇太后
第5 成年以上最近ノ皇族女子
井上は、当初、「皇統已(すで)ニ男子ニ限ルトキハ摂政亦、男子ニ限ラサルヘカラス」と考へた。摂政は、天皇に代って大権事項を摂行する身であるから、天皇同様、皇統に属する男系の男子であるべきで、従って、女性を摂政の有資格者にしてはならないと判断したのである。そして、柳原案を次のやうに修正した。
井上毅の第一次修正案
前条ノ場合ニ当リ、皇太子又ハ皇太孫成年ニ達シタルトキハ太政ヲ摂行ス、皇太子皇太孫未タ成年ニ達セサルトキハ、皇位継承ノ順序ニ従ヒ成年以上最近ノ皇族男子ヲ以テ摂政ニ任ス
ところが、井上は、早くも2月上旬には、この案を次のやうに改めた。
井上毅の第二次修正案
前条ノ場合ニ当リ、皇太子又ハ皇太孫成年ニ達シタルトキハ大政ヲ摂行ス、皇太子皇太孫未タ成年ニ達セサルトキハ、左ノ順序ニ従ヒ摂政ノ任ニ当ル
1 成年以上最近ノ皇族男子
2 皇太后
3 太皇太后
4 成年以上最近ノ皇族女子未タ婚姻セサル者
井上は、この修正案で、生存する配偶者をお持ちではない皇太后、太皇太后、さらに、同じく配偶者を持たれてはゐない未婚の皇族女子を、摂政就任の有資格者に加へた。有資格者の範囲を拡げた理由を、井上は、神(じん)功(ぐう)皇后や飯(いひ)豊(とよ)青(あをの)尊(みこと)など皇太后や皇女が摂政につかれた例が存すること、並びに、摂政就任の有資格者の範囲を広くして、それが皇族以外に及ぶことを防ぐためと説明した。
10.「摂政就任順序」案についての枢密院審議
明治21年5月25日の午後、明治天皇の臨御のもと、皇室典範草案の枢密院審議が開始された。この日審議に付された「摂政就任順序」案は、以下に示すものであった(以下は、小林 宏、島 善高共編著『日本立法資料全集17 明治皇室典範(下)』、信山社、平成九年による)。
第22條 攝政ハ成年ニ達シタ ル皇太子又ハ皇太孫之ニ任ス
第23條 皇太子皇太孫未タ成 年ニ達セサルトキハ左ノ順序ニ 依リ攝政ニ任ス
第1 皇族男子
第2 皇后
第3 皇太后
第4 太皇太后
第5 皇族女子
第25條 皇族女子ノ攝政ニ任スルハ未タ婚嫁セサル者ニ限ル
ここで注目されるのは、摂政就任の女性有資格者の筆頭に、「皇后」が加へられたことである。以上の条文は、6月4日の午前中に本格的に審議された。重要と思はれる箇所を、ごく一部ではあるが、以下に抄出して示さう(最初に二、三行、引用者の要約短文を付す)。
(河野(かうの)敏鎌(とがま)顧問官)
河野は、皇胤にあらざる皇后皇太后等の摂政就任を可とし、また、就任条件の「未婚」に異議を唱へた。
「皇后皇太后等ハ、人臣ノ家ヨリ册(さく)立(りつ)セラレ玉ヘルニモセヨ、册立セラレ玉ヘル以上ハ、皇后ナリ皇太后ナリ。出(いで)テ太政ニ参與シ玉フコトナシト雖モ、天皇ノ内政ヲ輔翼シ國母ト仰カレ玉フ御方ナリ。人民ノ尊崇モ亦甚(はなは)タ厚シ。皇族男子ノナキ時ニ方(あたり)テ皇后皇太后等ノ攝政ニ任シ玉フハ、當然ノ事ナリト云フヘシ。(中略)第二十五條ニヨレハ、皇族女子ノ攝政ニ任スルハ、未タ婚嫁セサル者ニ限ルトアリ。卽チ、攝政ニ任セラルル皇族女子ハ、多クハ年少ノ御方ナルヘシ。婚嫁ハ人道ノ大禮ナリ。若(も)シ二十歳ニシテ攝政ニ任シ二十年間モ其職ニアラハ、遂ニ婚期ヲ失ス ルノ不幸アラン。依テ第四迄ヲ存シ、第五ヲ削除セントス」。(井上毅報告員) 井上は、上古の女性摂政二事例を挙げ、それを無視するを否とした。 「淸(せい)寧(ねい)天皇崩シ、顯(けん)宗(ぞう)(顕宗)仁賢兩天皇未タ位ニ卽カス。此時ニ方テ、飯(いひ)豐(とよ)靑(あをの)尊(みこと)(飯豊青尊)三年ノ間攝政ノ位ニ在リ。飯豐靑尊薨(こう)シテ後、顯宗天皇卽位シ玉ヘルハ著明ノ事實ナリ。飯豐靑尊ハ(中略)歴史上皇族女子攝政ノ例ニシテ、神功皇后ノ事ト共ニ、支那風ノ未タ我國ニ入ラサルノ前ニアリ。我國固有ノ格例ニシテ天理人道ニ矛盾セサル限ハ、皇室典範ニ依テ之ヲ廢セサランコトニ最モ注意セサルへカラス」。(河野敏鎌顧問官) |
河野は、皇族男子の寡婦たる皇胤女子の摂政就任を可とした。
「其(その)同族(皇族のこと)ニ嫁セラレテ(中略)其夫旣ニ薨シテ寡居セラルル皇族女子ニ在テハ、(中略)攝政ニ任スルモ不都合アルコトナシ」。
6月15日の午前中に、再び審議が行はれた。第25條に関して、河野敏鎌顧問官から 「本條ノ精神ハ未タ曾(かつ)テ一囘モ婚嫁セサルヲ取ルニアラスシテ、現ニ配偶ナキヲ撰ハントスルニアリ。且ツ、攝政ハ年長者ヲ宜(よろ)シトスルニ、未婚者トアリテハ年長者ヲ得難シ。依テ本條ハ其ノ配偶アラサル者ニ限ルト修正センコトヲ望ム」
との修正案が出され、可決された。
この日、第46條(臣籍に嫁した皇族女子の身分を規定する条項で、後の成案第44條)に関する審議中に、「皇室古来の伝統的原則とは何か」を物語る極めて重要な発言が為された。それは、佐野常民(つねたみ)顧問官の以下の発言である。
「降嫁ノ爲ニ稱號ヲ失ハルルハ甚タ忍ヒサル所ナリト雖モ、旣ニ嫁セラレテ夫ノ分限ニ從ハルル以上ハ、夫ノ格ニ准セサルへカラス。皇位繼承ニ於テモ男ヲ取リテ女ヲ除クハ、典範ノ原則ナリ」。 |
甚(はなは)だ唐突になるが、ここに明示された「女性皇族は夫の分限(身分)に従ひ、夫の格に准ずる」、これこそが皇室古来の伝統的原則ではないかと思はれるのである。
明治22年1月18日の午後、枢密院審議が行はれた。その場で、前述の第23條が第二12條に移され、また、第一の「皇族男子」が「親王及王」と変更され、第5の「皇族女子」が「内親王及女王」と変更されて、その内容がほぼ確定した。
最終的には、以下の成案となった。
第20條 攝政ハ成年ニ達シタル皇太子又ハ皇太孫之ニ任ス
第21條 皇太子皇太孫在ラサルカ又ハ未タ成年ニ達セサルトキハ左ノ順序ニ依リ攝政ニ任ス
第1 親王及王
第2 皇后
第3 皇太后
第4太皇太后
第5 内親王及女王
第23條 皇族女子ノ攝政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル
11.皇室古来の伝統的原則
さて、「女性皇族は夫の分限に従ひ、夫の格に准ずる」といふことが、皇室古来の伝統的原則ではないかと先に述べておいた。
天皇は神ではあられない。しかし、一連の皇位継承儀礼を通過されることによって、天皇は、「一歩神に近づかれた別格の御存在」となられる。天皇は、他の皇族方とは格の異なる別格の御存在となられるのである。
明治の皇室典範は、第17條に、
「天皇太皇太后皇太后皇后ノ敬稱ハ陛下トス」と規定する。『皇室典範義解』は、これを、「本條に太皇太后・皇太后・皇后皆陛下と稱ふるは、嫡后國母は至尊(天皇のこと)に齊(せい)匹(ひつ)し(心を一つにして連れ添ひ)、至尊と倶に臣民の至隆なる敬禮を受くべければなり。但し、君位は一ありて二なし。皇后は固より佗(ほか)の皇族と均く人臣の列に居る」と説明する。
夫の分限とは何か。一般的に言へば、天皇、皇嗣(皇太子又は皇太孫等)、親王、王、臣民の別である。夫の格とは何か。一般的に言へば、先天的な格としては、「皇胤男子たるの格」か、「臣民男子たるの格」か、その区別である。後天的な格としては、「天皇たる格」か否かの別がある。
皇后、皇太后、太皇太后は、一般的に言へば、皇族たる「夫の分限」に従ひ「皇族」になられ、天皇たる「夫の格」に准じて「皇后」となられた方々である。天皇が別格の御存在であられるなら、皇后も亦、その格に准ずる御存在となられる。すなはち、その格とは、「天皇の御正配たる格」である。内親王および女王方は、生存する配偶者を持たれず、かつ、「皇胤女子たるの格」、すなはち、「皇統に属する男系の女子たる格」をお持ちである。従って、第2、第3、第4、第5の順に摂政就任の有資格者となられるのである。
我が国の長い歴史の中に見出された皇室古来の伝統的原則の一つは、「女性皇族は夫の分限に従ひ、夫の格に准ずる」といふことであった。他方、女性天皇や宮家の女性当主は、その分限やその格においては、最も高貴なる御存在であられる。もし夫たる生存する配偶者をお持ちであったとすれば、下位の夫の分限に従ひ下位の夫の格に准ずることになってしまふ。それは、決して許されることではない。故に、「御在位中、並びに、それ以降は、生存する配偶者を持つことを許さず」といふ厳格な不文律が課せられてきたのである。
「女性宮家」が出来れば、史上初めて、皇室の中に「臣民の格」を有する「臣民の身分」の宮家が出来てしまふ。神道において神代から続くとされる男系皇統の血筋を離れ、また、皇室古来の伝統を踏み外した「女性宮家」出身の天皇では、人々から仰ぎみられる尊き御存在にはなり得ないであらう。
(元新潟工科大学教授)
〝意見往来〟欄
【編註】本稿は、上村和男前理事長による50余年前、会社員生活四年の「意見」である(鹿児島大学昭和33年卒)。当時の昭和30年代半ばは大学や論壇では〝進歩的文化人〟が吹聴するマルクス主義(共産主義)指向が当然であるかの如き論が罷り通ってゐたことを偲ばせるものではあるが、それをおいても、現今の「働き方改革」論議を念頭におくと重要なことが指摘されてゐる。
「働き方の改革」(一昨年8月、閣議決定)とは、周知のやうに働く人の視点に立って、長時間労働の抑制、副業解禁、朝型勤務(早朝に出社、早めに退社)などの多様な働き方によって、生産性を向上させてその成果を働く人に分配するといふものである。国会での論戦が方法論に終始するのはある意味で仕方がないとしても、世間一般に「働くこと」そのものの意義と価値についての認識が深まってゐるかと言へば覚束ない。この機会に「働くこと」の根本について考へてみたい。
現代の社会は、科学と技術の巨大な進歩のおかげでめざましい発展を遂げてきましたが、その中で人間は益々同胞からの分断孤立を経験する破目に陥り、人間本来の姿を失ひつつあるやうに思はれます。
マルクスは、人間疎外の根源を現実の社会の生活条件の中に求め、このやうな社会的条件から必然的に人間の疎外が生み出されると云ってゐます。この社会の生活条件とは、労働の商品化を通じて搾取が行はれてゐる社会、つまり資本主義社会を指し、これを廃棄することこそ、人間の非人間化を克服するのに必要な条件であると述べてゐます。
社会生活を営んでゐるのが人間であるなら、人間そのもののあり方、即ち人倫に深いメスをいれ、その結果、その派生物である社会条件が適せず、人間が非人間化されるといふ結論に達してこそ、機構が云々されるべきであると思はれます。社会構造が悪いから、人間の非人間化が行はれるといふことは、一見、尤(もっとも)のやうに受けとれますが、この考へは本末転倒であるし、危険でもあります。
又、人間の本来の姿を取り戻すために、現存社会の構造を廃棄するといふことは、一見人道主義に立脚してゐるやうに思へますが、その手段として共産主義革命といふ、非人道的な方途を用ひることを思ひ浮べますと、それが決して言ふところの人間の非人間化を救ふものでないことがおわかりと思ひます。
マルクスの革命理論はさておき、人間が本来の人間としての姿を見出し、人間疎外を克服する要因は奈辺にあるでありませうか。私は、〝労働〟にあると思ひます。即ち、〝労働〟の中に自己を見出さうとする態度にあると思ひます。〝労働〟の中に自己を発見するといふ努力が欠如してゐるからこそ、人間の非人間化が、無自覚の中に自己の精神に芽生えて成長して来るのではないかと思ひます。
例へば、資本家対労働者の関係において、労働と資本といふ、無形のものと有形なものを対比し、人間そのものから〝労働〟を分離して捉へる傾向があります。しかし私は、〝労働〟は人間の存在を抜きにしては考へられず、〝労働〟とは、人間存在の表現であると考へます。かうした主体的な、そして自在無礙の態度がないからこそ、働くことに随伴する喜びや悲しみ、義務感や責任感、そして同胞への感謝と奉仕、かういった実感が無視されてしまふのです。労働は商品なりといふやうな観念の袋小路をつき破って生きた体験の世界に目を向けるべきであると思ひます。
再び申しますが、労働の目的とするものは、分裂や対立ではなく、人間存在の表現と解することこそが、人間の非人間化を救ふ方途ではないかと考へます。そしてそこにこそ、努力による社会の発展や、改革が含まれてゐると思ふのです。(もと現代カナ)
山口秀範著 『和誠礼勇―「教育往復書簡」に導かれる日本一の小中学校開設事業―』
産経新聞出版 税別1600円
多士済々の教育関係者が縦横無尽に語り合う
日本の義務教育のあるべき姿とは―
14年間の建設会社海外勤務を終えて久々に暮らす東京で著者(本会常務理事、(株)寺子屋モデル代表世話役)が見たものは、毎朝出会う通学中の小中学生が一様に見せる、いかにもつまらなそうな顔つき、輝きを失ったまなざしだった。
これに大きな衝撃を受けた著者は紆余曲折を経て、学校教育、とりわけ義務教育を刷新するしかないと確信するに至る――。
本書は、平成21年10月の産経新聞九州山口版発刊時から2年間連載された「教育往復書簡」を元に構成。九州エリアを中心とした教育関係者19名と著者との往復書簡形式での議論が繰り広げられている。また、著者の理想を具現化する日本一の小中一貫校「志明館」設立の経過と理念が語られる座談集も収載。日本の教育を考えるすべての人々に多くの示唆を与える一書である。
(標題書の案内から─カナ遣ひママ─)
◇小中一貫校「志明館」の理念(抄)
日本一の小中学校を作り、世界を動かす人財を育む
日本人四要素
和自立心旺盛にして周囲と睦び相和する心
誠恥を知る矜恃と己も他も欺かぬ相互信頼
礼万物に感謝し謙虚かつ簡素に振る舞う心身の構え
勇邪(よこしま)に対峙し逆境に怯まぬ猛き気概
◇志明館の教育方針
〇自国の歴史・伝統を正しく学び、美しき母国語を語る闊達な児童
〇自己の意思を臆せず表明し、相手の意見にも耳を傾ける情操豊かな生徒
〇健全な身体に鍛え上げ、万物と共生しつつ公に向かう使命感溢れる青年
〇卓越した学力・識見を基盤とし、異文化への理解と敬意を湛える国際派日本人
【「志明館」開設に関するお問ひ合せ先】
学校法人博多学園 小学校開設準備室
〒813-0041福岡市東区水谷1121―1
Tel:092-410-1450 Fax:092-682-1510
E-mail:shouchu@hakata.ed.jp
平昌オリンピック異聞
平昌冬季オリンピック異聞本当のことを伝へた!? 米NBCが謝罪した
旧聞に属することだが、去る2月の韓国・平昌での冬季五輪の開会式でのこと。その生中継の中で、米国三大放送網の一つNBCの解説者が発した言葉が、韓国内で問題化した。
ネット情報によると、この解説者は2月9日の五輪開会式で、日本の安倍晋三首相が観覧席にゐるのに気づき、「日本は1910年から1945年にかけて韓国を占領した」と述べた上で、「しかし、すべての韓国人は、自分たちの国が様変りするにあたって、日本は文化的にも技術的にも経済的にも本当に大事なお手本だったと言ふだらう」と述べたといふ。この発言が問題になっために、解説者はすぐ降板させられたらしい(「占領」は「併合」とすべきで、ずっと日本の持ち出しだった)。
念のため、産経新聞の紙面で確かめたら、同趣旨の左のやうな小さな記事があった(2月12日付け)。
「日本は韓国のお手本」 米NBC中継に反発 ネット上で問題化
【平昌=時吉達也】平昌五輪の大型スポンサー、米NBC放送が9日の開会式の中継で韓国をおとしめたとして、インターネット上で問題化している。聯合ニュースなどが報じた。
NBCは日本選手団の入場行進の際、韓国が日本統治下にあった歴史に言及し、「すべての韓国人は彼らの社会の変化において、文化的、技術的、経済的に日本が大変重要なお手本になったと言うだろう」とコメント。ネット上で反発が上がった。
左派紙のハンギョレ(電子版)は、五輪組織委の抗議にNBCが公式謝罪したと伝えた。
ちなみに「聯合ニュース」とは韓国を代表する通信社で、NBCの解説者の発言も、それをNBCが謝ったといふのも事実のやうだ。
NBC解説者の発言が無神経でないとは言はないが、韓国では珍妙稀有な「反日」歴史幻想に発する「慰安婦像」に続き、「徴用工像」が浮上してゐる。「NBC発言」の顚末もそれと深く関連してゐる。朝日新聞などのメディアが韓国の反日幻想をふくらませて来た。日韓関係の原点は昭和40年の日韓基本条約にあるはずで、そこには「慰安婦像」や「徴用工像」といふ「まぼろし」が出て来る余地はない。無責任なメディアには呆れるが、わが外務省の責も重い。
(元拓大・亜大講師山内健生)
第63回全国学生青年合宿教室
〈研修のテーマ〉
①世界における日本のあり方を考へる
②わが国の歴史と文化をより深く理解する
③古典や短歌を通じて豊かな感性を育む
─参加費─
学生1万2千円 社会人2万5千円
□合宿教室(西日本)
8月24日(金)~26日(日)於・福岡県篠栗町 県立社会教育総合センター
□合宿教室(東日本)
9月7日(金)~9日(日) 於・静岡県御殿場市 国立中央青少年交流の家
評論家 江崎道朗先生、ご出講!
案内パンフ配布中(参加受付中)
03(5468)6230 info@kokubunken.or.jp
編集後記
米朝首脳会談をめぐっては、自らの最良の方策を探って全力を傾ける両者の駆け引きが浮上した。どこの国も必死だが、わが国だけは「憲法上の制約」から与野党とも自らの手足をどう縛るかで議論を展開してゐる。尖閣は愈(いよいよ)危ふく、拉致邦人の救出はどうなるのか。
(山内)