国民同胞巻頭言

第618号

執筆者 題名
理事長 上村和男 「公益社団法人」としての発足に当って
- 祖国日本の再生に向け、さらなる協力態勢を -
古賀 誠 いはゆる「南京虐殺」の真相
中村 正和 「日本の再興」のために(上)
- 「日本的なるもの」の否定から脱却せよ! -
布瀬 雅義 上杉鷹山
- ケネディ大統領が尊敬した政治家 -

 平成20年12月の新公益法人制度の施行によって、既存の「法人」は五年以内に、「公益社団法人」か、「一般社団法人」か、の何れかを選択して、新たに認定を受けなければなくなってゐたが、本会の「公益社団法人」移行認定の申請(昨年八月)に対して、先月末、内閣府から認定書が届き、4月1日付をもって「公益社団法人 国民文化研究会」が発足することになった。

 昭和10年代の日本学生協会と精神科学研究所の道統を継承して、昭和31年に創立された本会は、昭和39年3月に「社団法人」の認可を受けて今日に至ってゐる。

 この度の「公益社団法人」の認定は、小田村寅二郎先生を初めとする亡き諸先生・諸先輩のお導きと、会員各位の日頃の活動があればこそのことと、改めて感謝申し上げる次第である。

 今回の法人制度改革に際しては、新制度施行の翌平成21年2月、事務局内に移行検討チームを設けて、「公益社団法人」「一般社団法人」の何れを選択すべきかについて鋭意、研究討議を重ねてきた。その結果、「公益社団法人」の途を選ぶべしとの結論に達して、昨年八月、内閣府に認定の申請を行ったわけである。公益社団法人への移行申請といふ大方針は、平成23年6月の定時総会において承認されてゐた。

 検討移行チームのメンバーは、稲津利比古事務局長を初めとする今林賢郁、磯貝保博、奧冨修一、公文敏雄、飯島隆史、山本伸治、小田村初男の諸氏であり、申請の如何から財務状況の見通し、申請に向けた新定款・諸規程の文案作成まで検討は40回余りに及んだのであった。検討チームの各位にも感謝したい。

 本会が「公益社団法人」を選択した大きな理由は、@本会の諸事業への御賛助金に税制上の優遇措置(寄附金控除)が適用されるA従って、公益社団法人の認定には厳しい条件がつくが、それによって公益性の高さが証明されることとなる、との二点であった。しかし、公益社団法人は認定後の運営に当っても、事業内容、資産管理、会計基準の適合性等について、法令上の要件を継続的に満たすことが求められてゐることも肝に銘じなければならない。今回の制度移行に際して、これまでの理事(旧定款では25名まで可)を半減の12名にせざる得なかった。これは理事会へは出席が原則とされ委任状提出が不可能になったからでもある。今後の運営には一層気を引き締めて当る所存であるが、会員各位のさらなる御協力を心からお願ひしたい。

 公益法人を選択すれば“国文研らしさがなくなるのではないか”との懸念の声も耳にしたが、賛助法人にご挨拶に伺った折など逆に“是非早く認定されるやうにお願ひしたい”と促されることもあった。新法人になったからと言って、活動の基本が変る筈もなく、本会の事業目的である「日本の長い歴史の中に蓄積された祖先の足跡を学び、国民各層への伝統文化の普及に努めるとともに、国内外で活躍する有為な青年の健全な育成を推進し、もって文化の振興並びに豊かな人間性の涵養に寄与する」(新定款第三条)ための活動は何一つ変らない。今後とも会員諸兄と心を一つにして活動するのみと決意を新たにしてゐる。

 ご承知のやうに合宿教室も回を重ねて今夏の神奈川県厚木市開催で58回となる。第一回の霧島合宿(昭和31年)の参加者学生のひとりとして、いささかの感慨を覚えるが、関東、関西、九州、北陸、東北、北海道等の各地区での読書会、輪読会、短歌の会などの諸活動が、公益社団法人「第一回目」の厚木合宿の成功につながるものとなって欲しいと願ってゐる。さらに本会は二年後に創立60周年を迎へるが、その記念事業(シンポジウム、図書出版など)に向けての作業も本年度中には始まる予定となってゐる。

 公益社団法人のスタートに当り、会員個々の思ひに支へられての国文研であること再確認しつつ、祖国日本の再生に向け会員相互の協力態勢を強めたいものと切に願ってゐる。

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 巷間で言はれる「南京虐殺」については、当会会員の東中野修道亜細亜大学教授らの精力的な研究のお蔭で、その捏造の真相はほぼ解明された。けれども、マスコミが取り上げない為に、捏造の真相はほとんど国民に知られてゐない。私の理解できた範囲で、この問題を纏めてみたい。

 「南京虐殺」は東京裁判で強引に取り上げられた。日本国民にとっては全く寝耳に水で、弁護団も「無かった」ことを「無かった」と証明するのに苦労した。裁判自体が罪刑法定主義にもとる単なる復讐劇であったため、松井石根中支方面軍司令官や広田弘毅元首相らが絞首刑に処せられた。

     南京城の戦闘

 1937年8月、上海事変の激しい戦闘の後、ドイツ大使トラウトマンの仲介で停戦協定が成立寸前だった。しかし、11月に国府軍は突然総撤退を開始した為に、日本軍約7万5千人が南京へ追撃を開始した。国府軍の作戦会議では南京の開城撤退論が多数だったが、唐生智が交戦を主張した為に、蒋介石は彼を守備隊司令官に指名した。首都南京では市民の多くはすでに避難してをり、残った市民約20万人は国際委員会が作った安全地帯に避難してゐた。日本軍による投降勧告は拒否された。

 12月に13日間の戦闘が始まった。南京城の反対側の城門が閉ぢられてゐた為に、多数の中国兵が城門前で圧死したり、逃げて揚子江を渡河中に水死した。また、城壁内外では自軍部隊の戦闘を監視する督戦隊が退路を絶ってをり、中国兵同士の同士撃ちが多数起った。しかも司令官唐生智は部下を置き去りにして逃亡した。

 中国兵約5万人の中には、軍服を着てゐない便衣兵が多く混じってゐた為に、兵士と市民の区別が困難で、日本軍にとって緊張を強いられる戦ひだった。また、投降してきた捕虜による暴動・逃亡・放火なども起った。結果的に南京城内外で約3万人の中国兵が死亡した。

 また、安全地帯周辺には多数の軍服が脱ぎ捨てられてをり、中国人便衣兵約2万人が安全地帯に逃げ込んでゐた。内部から大量の武器が発見された為に、中国人を尋問して数千人を掃討した事は事実らしい。これは戦時としては当然の事で、国際委員会も抗議してゐない。なほ、日本兵の戦死者は約2万人。

     南京戦闘の報道

 当時南京に滞在した多くの日本人・外国人記者は民間人虐殺などといふニュースは打電してゐない。僅かにダーディン記者がニューヨークタイムズ紙に「南京防衛軍の内3万3千人が殲滅されたが、内2万人が処刑された可能性がある」と記した程度である。

 国際委員会は南京戦後の二ヶ月間に起った日本軍による犯罪として、殺人49人、強姦361人などと報告してゐる。

 英国マンチェスター・ガーディアン紙のティンパレーは当時上海に滞在してゐたのだが、「南京事件を目撃した記者達の手記やレポートを纏めた」と主張して、『戦争とは何かー外国人が見た日本軍の暴行』と題する本を出版した。手記の筆者は国際委員会のベイツ教授やフイッチ師であると後に判明してゐる。

 米国人ジャーナリストのエドガー・スノーは著書『アジアの戦争』の中で、日本の侵略主義を批判し、「いやしくも女である限り、10才から70才まで全て強姦された。南京で日本軍は人民4万2千人を虐殺した。上海から南京まで進軍中の犠牲者は30万人と見積もられる」と記載した。出典根拠は国際委員会としたが、これら数字を国際委員会が発表した事実はない。

 スノーの著書によって、所謂「南京虐殺」は世界に広く知られ、東京裁判の検事側訴状の基になった。検事側証言のほとんどは伝聞であった。けれども、ナチス・ドイツと同様の大虐殺を作り上げたい東京裁判判決は「南京における民間人大虐殺」の管理責任を問ふとして、松井石根司令官らを絞首刑にした。

 日本のマスコミで「南京虐殺」を大々的に取り上げたのは、昭和46年(1971)に朝日新聞の本多勝一記者が同紙に連載した「中国の旅」である。中国人に直接取材したと称して、自分の意に叶ふ証言を集めて記事にし、後に単行本に纏めた。他に、「南京虐殺」を主張する出版物の代表的なものが、洞富雄の『決定版南京大虐殺』とされてゐる。

 彼らの主張の特徴を列挙すれば、@東京軍事裁判の判決を鵜呑みにしてゐる。*2戦闘員と非戦闘員を区別してゐない。A国府軍側が軍服でない便衣戦戦術を用いた事に言及してゐない。B中国側の督戦隊による同士撃ち、城門前での圧死などを全て日本軍の所為にしてゐる。C日本軍の莫大な被害や犠牲に対しては配慮がない等々、このやうに、東京裁判史観に大きく影響されてゐるのが、大虐殺派の共通した特徴である。

     「南京虐殺」への疑念と真相

 もし、「南京で日本軍が六週間余りの間に30万人の民間人を虐殺した」といふ中国側主張が事実ならば、一日7千人が殺され、人口が激減した筈である。しかし、実際には南京の人口は5万人増えたといふ記録がある。

 当時中支方面司令官だった松井石根大将は、民間人を傷つけないやうにと厳命してをり、強姦事件などでは日本兵百余名を厳罰に処してゐる。当時彼は諸外国の記者に対して何度も会見を行ってゐるが、虐殺などの質問は皆無だった。

 国際委員会も日本軍を直接非難する声明は出してゐない。東京裁判でベイツ教授やマギー師は虐殺と主張したが、内容はほとんど伝聞であった。マギー師は、日本兵に後ろから誰何されて驚いて逃げ出した中国人1名が殺された件のみが自分の目撃したことだと証言してゐる。

 国府軍側の蒋介石や何応欽将軍らは300回ほど諸外国記者団と会見を行ったが、その際「民間人虐殺が問題になる事はなかった」と明言した。当時南京にゐた多くの日本人・外国人記者達は「民間人虐殺」を目撃してをらず、ニュースとして打電してゐない。

 先に述べた如く、『戦争とは何か』の中で南京市民虐殺を報道したのは、ティンパレーだが、実は彼が当時国民党中央宣伝部顧問として、欧米に対する宣伝工作を担ってゐた事実が『近代来華外国人名事典』に明記されてゐた。『戦争とは何か』を分担執筆したベイツ教授は当時国民党顧問であり、また別の分担執筆者フィッチ師の妻は、蒋介石夫人宋美齢の親友だった。

 ベイツ教授、フィッチ師、マギー師、スマイス教授らは南京の安全地帯を管理する国際委員会の米国人委員であり、所謂「南京虐殺」の基本資料はほとんど彼らに由来するものであった。長く中国に滞在して、キリスト教宣教活動に従事してゐた彼らは、むしろ親中国派で、国際委員会は中立的なものではなかった訳だ。彼らは国民党と連絡を取りながら活動してをり、ティンパレーらとの連絡記録も明らかになってゐる。

 国民党中央宣伝部が南京陥落後三年間の総括した極秘文書には、『戦争とは何か』が含まれる。当時宣伝処長だった曾虚白は、自伝の中で「ティンパレーやスマイスに金を渡して、執筆を依頼し、その印刷・中国語版作成、販売を中央宣伝部が行った」ことを明らかにしてゐる。

 マギー師は16ミリフィルムで当時の南京を撮影してゐた。そのフィルムを持って、フィッチ師が国民党の依頼で渡米し、アメリカ政府・議会・新聞社などで日本の残虐行為を訴へて回り、それらは新聞や雑誌で報じられた。しかし肝心の映像も、写ってゐる死体が戦闘によるか、「虐殺」によるものか、推測の域を出ないものであった。

 結局、ティンパレーの『戦争とは何か」は日本を誹謗中傷して、同情を買ふ為に作った宣伝本だった。また、宋美齢を中心に行ってゐた欧米向けの反日情宣活動の一環として、国民党中央宣伝部が捏造宣伝したのが、所謂「南京大虐殺」の真相だ。戦後、マッカーサーはこれを利用して、東京裁判や検閲体制下に置いた新聞・ラジオを通じて日本国民への宣伝工作を行った訳だ。

 最近東中野修道教授らの研究によって明らかになった事実がある。「南京虐殺」を主張する本に掲載された証拠写真の全てが、過去に公表された写真の焼き直しで、しかも説明の改竄、写真の合成、捏造が加へられてゐた事である。ティンパレーの『戦争とは何か」や本多勝一の『中国の旅」などに掲載された写真の中で、証拠として通用するものは一枚もなかったといふ。

 1966年、田中正明氏(松井石根氏の元秘書)ら台湾を訪ねた使節団に対して、蒋介石が涙ながらに述べた謝罪の言葉がある。「南京に大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告でちゃんとその事を記録している筈です。私も当時大虐殺などという報告を耳にした事はない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです。閣下には誠に申し訳ない事をしました」。

 文化大革命の最中に、朝日新聞の本多勝一が「中国の旅」を書き、その所為か、朝日新聞のみが特派員追放を免れた。その後も中国報道についての自己規制・偏向報道が日本のマスコミで罷り通ってゐる。

 1985年(昭和60年)に建てられた「南京大虐殺記念館」は、日本社会党の田辺誠(当時、書記長)の入れ知恵で、建築資金3千万円は総評の援助であった事を見逃すことはできない。我が国を貶める外国のプロパガンダには断固反論していかなければならないと思ふのだが、それにしても東京裁判史観に染まった反日的日本人がマスコミ界に跋扈してゐる現状は腹立たしい限りである。

 参照○北村稔著『南京事件の探求 その実像を求めて』文春新書○東中野修道著『南京事件、国民党極秘文書から読み解く』草思社○東中野修道他著『南京事件 証拠写真を検証する』草思社○藤井厳喜著『騙される日本人』PHP研究所

(元九州大学医学部助教授、医師)

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     戦後教育の問題

 先頃、若者たちと勉強会を行ひ、「日本的なものとは一体何か」を話し合った。今まであまり意識したことがなく、若い人たちは改めて問はれると「日本的」とは何であるのかと考へ込んでゐた。しかし、これは現代のわが国を象徴してゐる深刻な問題である。この問題を考へるためには、第一に日本国憲法の欺瞞について語らねばならない。

 礼節、正直、清明心、誠意、まごころ、思ひやり、恥を知る心、これらはわが国の父祖たちが大切にして来た日本の倫理であり、日本人のこころである。この日本の倫理、日本人のこころを、あるいは日本の神話・英雄・偉人の物語、わが国の精華である武士道のことを、戦後の若者はどれだけ知ってゐるだらうか。戦後の日本は、「日本的なるもの」を避けて来た。とりわけ学校教育から意図的に排除されて来たのである。

 なぜさうなったのか。その根本的原因が日本国憲法の前文にある。その翻訳調の文章には、わが国の父祖が伝へて来た「日本的なるもの」がまるごと欠落してゐる。そればかりか、その前文が掲げる「人類普遍の原理」とは、「日本人」を否定するための大原則である。戦後憲法の目標が「日本人」を育成することに置かれてはゐないのである。

 さらにもっと直接的な原因は、昭和21年2月4日に占領軍が定めた『教科書検閲の基準』(『検証戦後教育』高橋史朗著参照)にある。占領軍は、五つの項目を「戦後の日本の教科書から排除すべきもの」として挙げてゐる。その五項目とは何か。

 1、天皇に関する用語
 2、国家的拡張に関する用語
 3、愛国心につながる用語
 4、日本国の神話の起源や、楠木正成のような英雄等
 5、神道や祭祀、神社に関する言及等

 この五つの項目は、いづれも日本の文化・歴史・伝統、日本人の道徳・精神・こころの核心となってゐたものである。そして、今日のわが国の学校教育は、今だに「日本的なるもの」を否定するこの『教科書検閲の基準』に拘束されてゐるのである。

 特に教育に関する占領政策を見れば、占領軍がいかに教育を重視し、これを利用したかが明らかとなってくる。戦後すぐに、占領軍の指令によって剣道・弓道・柔道など、「武士道」にかかはる一切のものが禁止された。また、修身・国史・地理の授業が停止となり、明治以後、日本人の道徳の根本とされた教育勅語も廃止となった。そして、昭和22年(1947)教育勅語に代るものとして、教育基本法が占領軍によって成立させられた。

 この教育基本法を見ると、その前文は、占領憲法の前文を受ける形で「民主的で文化的な国家を建設」「世界の平和と人類の福祉に貢献」「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」が謳はれてゐる。そして、その第一条「教育の目的」に掲げられたのは、西洋キリスト教道徳である「人格の完成」と個人主義道徳であった(平成18年に改正されたが類似の語句はそのままである)。

 わが国の憲法、そして教育基本法は、根なし草のやうな無国籍の地球人を育てようとしてゐる。しかし、明日のわが国を担ふ「日本人」の育成こそが国とその教育の使命である。日本の文化・歴史・伝統を深く理解し、これを体得した人物でなければ外国とは渡り合へないし、本当の国際交流、心や魂の触れ合ひはできない。「真の日本人」でなければ世界には通用しないのである。

 そして、今日の若者に最も欠けてゐるのは規範意識である。欲望に克つ自己抑制力である。日本人としての倫理・道徳である。戦後教育は、最も大切なこの道徳教育をなほざりにして来た。そこに戦後教育の最大の問題点がある。そしてここで、占領軍の真のねらひが「日本人の思想の解体」にあったといふことを、まづ深く肝に銘ずるべきである。

     日本人の崩壊

 占領軍が戦後の日本に導入した「自由・平等」の理想と「自由主義経済」は、わが国に一体何を招来したのか。この問題を日本人の「モラルの低下」「日本人の思想の解体」といふ視点から捉へ直す必要がある。

 現代の日本は、一見すると、自由と平等で豊饒な社会のやうに見える。しかし、その実態はどうか。派遣切り・失業者・生活保護者の増大、非行・犯罪の低年齢化、人権と人権の対立、クレーマー(むやみに異議を言ひ募る人)の出現、不登校・ニート・いぢめ・自殺の増大、幼児虐待・DV(家庭内暴力)等々。日本はどうなってしまったのか。

 今日の日本は、身勝手な要求を限りなく許容し、過剰な「人権と自己主張」が野放しにされてゐる社会である。市場に溢れる情報と商品がさまざまな形で個人を刺激し、その欲望を肥大化させる飽食の社会である。国民があまりに無警戒にコマーシャリズムに操られ、金とモノと情報の奴隷となってゐる社会である。

 「自由・平等」は人権の原理であると同時に、市場経済といふ欲望の社会を根本から支へる原理である。欲望の体系である資本主義とその自由を保障する民主主義は、相補的な不可分の関係にある。そして、このリベラリズムの追求には、モラルによる制約と統制が必須である。なぜなら、個人が欲望のまま権利だけを主張すれば、共同体は破綻し、「万人の万人による闘争」に行き着くのは明らかだからである。

 占領軍は、自由・平等といふ「人権の原理」と、市場経済といふ「欲望の原理」をセットで日本の社会に導入した。そしてアメリカの世界戦略の中に日本を取り込んだ。しかも、すでに述べたやうに日本人の倫理・道徳を根こそぎ否定し去ったのである。日本人の規範意識と自己抑制力を躾けられてゐない無抵抗な子どもたちがやがて親となり、次の世代の子どもを育てる時代となった。

 そして、現代の日本は、今まで経験したことのない悲惨な競争社会・格差社会に陥ってゐる。闘ひ奪ひ合ふ醜い訴訟社会に移行しつつある。自己の権利を優先し、自己を主張しなければ負け犬になってしまふ。この自由で平等で豊かであるはずの日本で、子供も大人も過酷な競争と格差に晒されて、人を信じることさへ難しくなってゐる。誰もが自分を守ることに汲々となり、ストレスを抱へ、不安と孤独の中で生きてゐる。

 常に「和」を重んじ、相手への配慮や思ひやりを優先して来た日本人が、平気で弱者を切り捨てる恥知らずな国民になり下がってゐる。わが国の人心が今日ほど自己中心的で自己防衛的になったことがあっただらうか。今日、この「人権の原理」と「欲望の原理」は、家庭・地域・国の中で生きる日本人の「絆」を切断し、日本人の人間性と人格を踏みにじり、確実に日本の社会をその根底から蝕んでゐるのである。

     平和憲法の虚妄

 尖閣・竹島・北方領土の問題、北朝鮮の核・ミサイル・拉致問題、中国の反日デモ等々、日本の名誉と国益は大きく損はれ、日本の外交はもはや機能してゐない。国民の生命と財産、これを守ることはおろか、抗議すらできない国となってゐる。

 PKOにおける制約、集団的自衛権の禁止、日米安保条約・日米地位協定の片務性、緊急事態条項の欠落。日本周辺で紛争が起きた時に日本はどうするのか。日本の島々が侵略され、国内でテロが起ったらどうするのか。大きな災害や事故が起ったら自衛隊はどう動くのか。そして実際に、あの東日本大震災と津波、そして福島原発事故が起きたのである。

 しかしそれでも、緊急事態に対する対策は未だに講じられてゐない。どうしてか。日本の憲法が政府の安全保障上の行為を制約してゐるからである。「自衛」以外の目的で自衛隊を動かすことを堅く禁じてゐるからである。憲法の前文と第九条によって日本を守ることそのものが禁じられてゐるのである。

 “日本は、戦争を放棄した平和主義の国家である。従って、侵略も受けない、核兵器も落ちない、テロも、大きな災害も起きない。これを想定してはならないし、準備する必要もない”。信じがたいことであるが、これがわが国の現実の姿である。

 日本国憲法における「平和の理念」は、日本人から戦ふ能力を奪ふためのもので明らかに虚妄である。日本を戦へない国にするための去勢の原理である。そして、今日のわが国は、安全保障上の大きな危機に立たされてゐる。それにもかかはらず、日本の政治家も官僚も、そして学者もマスコミも、保身と事勿れ主義に逃れて、思考停止状態に陥ってゐる。

     占領軍の秘密工作

 敗戦後、67年の歳月を経た今日、戦争に負けたことの意味を痛切に憶ふのである。敗戦後、占領軍は、武士道の国日本が二度と再び世界の脅威とならないやうに、日本人の精神を徹底的に破壊する秘密工作を遂行した。当時のバーンズ国務長官が命じた日本人の「精神的武装解除」であり、これに基づいて実施された「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(『閉ざされた言語空間』江藤淳著)である。この米占領軍の政策によって、今日のわが国はかくまでも徹底的に打ち砕かれたのである。

 占領軍は表では日本の民主化と自由を盛んに宣伝した。しかし、その裏では日本人に知られないやうに、30項目に及ぶ「プレスコード」を作成し、厳しい検閲と言論統制を行った。それは、戦後の日本の言論において「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」のリストであった。今日においてもまだ日本人を拘束してゐるものである。

 1、SCAP(連合国最高司令官)に対する批判
 2、極東軍事裁判批判
 3、SCAPが憲法を起草したことに対する批判
 4、検閲制度への言及(中略)
 8、朝鮮人に対する批判
 9、中国に対する批判(中略)
 16、戦争擁護の宣伝
 17、神国日本の宣伝(中略)
 19、ナショナリズムの宣伝
 20、大東亜共栄圏の宣伝
        (以後略)

 この検閲指針のリストによって占領軍が目指したものは、「日本的なるもの」の否定であり、「日本人の精神」の解体であり、日本人の伝統的な価値観の組み替へであったことは明らかである。しかも同時に、占領軍は20万余の日本人を公職から追放し、代りに占領政策に協力する「反日的日本人」を選び、日本の行政・教育を中心とするあらゆる組織の中枢に据ゑたのである。

 占領軍の検閲指針(プレスコード)は、やがて、出版の停止や発禁処分を恐れる日本人自身によって、自主検閲するように仕向けられて行った。かうして日本人自身の中に「日本的なるもの」をタブーとし、これを極力排除しようとする意識が埋め込まれて行ったのである。

 昭和27年、サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復するまで、戦争は、まだ継続してゐたのである。

 わが国は、今、国家存亡の淵に立たされてゐる。だが、その責任は、敗戦を終戦と思ひ込み、占領軍の深い意図に気づかうともせず経済的繁栄を追ひ求めた戦後の日本人にある。世界の歴史と諸国の存亡を深く研究した歴史学者のトインビーは次のやうに述べてゐる。

 「一つの国が滅びるのは、戦争によってではない。天変地異でもなければ、経済破綻によってでもない。国民の道徳心が失はれた時にその国は滅びる」

 今日のわが国においてこの言葉はあまりにも重い。しかし、まだ、間に合ふ。いまこそ、「日本的なもの」を再発見し、わが国を再建・再興すべきときである。

 憲法の改正は急務である。現在、日本国憲法はわが国における総ての法体系を規定する根本法規である。この占領憲法が国家の基本方針の前提となってゐる。この憲法があらゆる行政・立法と、すべての事件・訴訟の是非、勝ち負けを最終的に決定する最高基準となってゐる。これは誠に恐ろしいことなのである。

 また、安全保障と緊急事態に対する法整備を最優先の課題としなければならない。そして、わが国の教育の在り方を根本から立て直さなければ、子々孫々に取り返しのつかない禍根を残すことになる。最も大切なのは、わが国が真に自立し、われわれ日本人が道徳心と誇り・信念を取り戻すことにある。

          - 以下次号 -

(神奈川県立小田原高校定時制教諭)

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     Uesugi Yozan, who?

 1961年(昭和36年)、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団からこんな質問を受けた。

 「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」

 ケネディは答へた。「上杉鷹山です」(1)

 日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知ってゐる者が何人ゐただらうか。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、青少年に敬愛されてきた人物である。

 上杉鷹山とは、どのやうな人物なのだらうか。そしてなぜケネディは鷹山を尊敬してゐたのだらうか。

     破綻してゐた藩財政

 上杉鷹山は宝暦元年(1751)、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生れ、数へ10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。

 上杉家は関ヶ原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康によって会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに三代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、からうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。

 収入は八分の一になったのに、120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなかった。現代の日本のやうな深刻な財政破綻に陥ってゐた。収入を増やさうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少してゐた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買ひたる物も価を償はず、廉恥を欠き信義を失ひ」といふ状況に陥ってゐた。(1)

     民の父母

   受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

 これは鷹山が17歳で第九代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養ふごとく、人民のために尽すことであるといふ鷹山の自覚は、徹底したものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の三ヶ条を贈ってゐる。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

 ・国家は、先祖より子孫へ伝へ候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」として尽す使命がある、と鷹山は考へてゐた。しかし、それは決して民を甘やかすことではなかった。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。(2)

 ・自ら助ける、すなはち「自助」
 ・近隣社会が互いに助け合ふ「互助」
 ・藩政府が手を貸す「扶助」

     武士たちの「自助」と「互助」

 「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆や楮、桑、紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼ひ、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。

 鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植ゑ育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この太平の世には、武士も農民の年貢に徒食してゐるのではなく、「自助」の精神で生産に加はるべきだ、と身をもって示したのである。

 やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたづさはり、働くことの喜びを 覚えるやうになった。

 米沢城外の松川にかかってゐた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになってゐた。この福田橋を、ある日、突然2、30人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。

 橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであらう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直さう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑ふ声を無視して、武 士たちは作業にうちこんだ。

 やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まってゐた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでゐる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言ふまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農民や町人のために」といふ互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。

     農民たちの「自助」と「互助」

 「互助」の実践として、農民には、5人組、10人組、一村の単位で組合を作り、互ひに助け合ふことを命じた。特に、孤児、 孤老、障害者は、5人組、10人組の中で、養ふやうにさせた。一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四ヶ村が救援すべきことを定めた。

 貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思ひをしてゐた。そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶやうに売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるやうになった。

 これも「自助」の一つである。

 さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬ふ気風が育っていった。養父重定の古希(70歳)の祝ひには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与へた。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4,560人に増えていたといふ。(1)

     大飢饉をしのいだ扶助・互助

 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問はれた。天明2年(1782)、春から長雨が始まって、冷夏となった。翌3年も同じやうな天候が続いた。米作は平年の二割程度に落ち込んだ。

 鷹山が陣頭指揮をとり、藩庁の動きは素早かった。

 ・藩士、領民の区別なく、一日あたたり、男、米三合、女二合五勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
 ・酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
 ・比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買ひ入れ。

 鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

 全国300藩での中で、領民の救援をなし得る備蓄のあったのは、わづかに、紀州、水戸、熊本、米沢の四藩だけであった。

 近隣の盛岡藩では人口の二割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者・病死者が出たとされてゐるが、米沢藩では、このやうな扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じてゐる。江戸にも、飢ゑた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もゐなかった、といふ (2)。

 米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として三度も表彰を受けてゐる。

     自助・互助の学校建設

 鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考へた。しかし、とてもそれだけの資金はない。

 そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から資金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がゐた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしてゐたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。

     アジアのアルカデヤ(桃源郷)

 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、江戸時代の余韻を残す米沢について、次のやうな印象記を残してゐる。

 「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に 囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である」(3)

 イザベラ・バードは、この土地がわづか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするやうな所であったことを知ってゐたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのである。

 美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人を敬ひ、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

     ケネディの問ひかけ

 And so my fellow Americans, Ask not what your country can do for you.
 Ask what you can do for your country.
 それゆゑ、わが同胞、アメリカ国民よ。
 国家があなたに何をしてくれるかを問ふのではなく、
 あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。

 ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節である。国民がみな国家に頼らうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されてゐる。現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のための公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国からの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものだ。

 国家といふ共同体が成り立つためには、その構成員が、それぞれ国家のために、お互ひのために何かをしよう、といふ「自助と互助の精神」が不可欠である。それがあってこそ、国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味はふことができる。ケネディが鷹山を尊敬したのは、「自助・互助の精神」が、豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったからであらう。

 しかし、我が国の戦後教育は、鷹山公をことさら無視してきた。それは「扶助」のみを訴へる戦後の社会主義的風潮からは、「自助・互助」とのバランスをとる鷹山の姿勢は受け入れがたいものがあったからであろう。財政再建も、また教育や政治の改革も、「自助と互助の精神」の復活が鍵である。それを教へてくれてゐる人物は、我々自身の歴史のすぐ手の届くところにゐるのである。

(1)鈴村進『上杉鷹山に学ぶ』、三笠書房知的生き方文庫
(2)童門冬二『小説上杉鷹山』、集英社文庫
(3)イザベラ・バード『日本奥地紀行』、平凡社東洋文庫(川勝平太『文明の海洋史観』、中公叢書再引用)
   - 国際派日本人養成講座130号から -

   - 刊行!昨夏の阿蘇合宿の報告集 -
      『日本への回帰』第48集

 一度は考へておくべきこと  白濱 裕
 西隆盛『南洲翁遺訓』 今林賢郁
 皇室と国民- 感応相称の世界  小柳志乃夫
 先人の言葉に学ぶ -しきしまの道について-   奧冨修一

 

 編集後記

 巻頭の理事長挨拶の通り本会は4月から公益社団法人として新たな一歩を記しました。新法人移行の趣旨をご理解いただき、旧に倍するご支援ご鞭撻をお願ひ申し上げます。

 (山内)

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